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激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 プチャーチンとヘダ号
2005年11月22日 (火) | 編集 |
■下記の「日本人はなぜロシアが嫌いか(その1)」の中で、下田条約とプチャーチンについて少し触れたが、11月18日付の時事通信に「幕末日本、近代技術、ロシアに学べ=プチャーチン提督の新史料明らかに」という記事があったので引用する。これって、プーチン来日に合わせたニュース(・_・?)

幕末、日露和親条約の締結を目指すロシア皇帝の使節として下田に滞在中、大津波で船を失った同国海軍のプチャーチン提督が、帰国用の代用船の建造支援など幕府の対応ぶりを記した直筆報告書の内容が17日までに明らかになった。
報告書は日本への謝意を示す一方、航海術や軍事といった技術の移転を幕府から要請された点を強調しており、当時の日本が災難に遭ったロシア使節への支援を造船などの近代技術獲得の好機ととらえていたことがうかがえる。


■この記事の内容程度のことは以前から知られてたんだけど…。
『歴史読本』2005年9月号にも、プチャーチン関連の興味深い論考が載っていた。菅田正昭氏の「古代技能神の故地を往く」というもので、古事記と日本書紀の中の「枯野」と呼ばれる船から、伊豆の狩野川や軽野神社を導き出し、八丈島では小舟をカノーと呼び、ここからカノ(狩野)という地名が生じたと推測している。
さて静岡県沼津市にある戸田(へだ)にも、かつて古代の造船技術集団がいたという。岬の先にある諸口神社の境内には戸田造船郷土資料博物館があるが、実はここが近代造船の発祥地なのだそうだ。

「嘉永7年(1854)、ロシアはプチャーチン監督以下500名を乗せた軍艦 ディアナ号(2千トン)を下田港に派遣したが、11月4日の大地震に伴う波で被災し、さらに台風にも遭遇して沈没した。その代船として幕府が山(にらやま)代官江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)(1801~55)を工事監督して建造させたのが2本マスト、全長22メートル、幅7メートルの100ト級のスクーナー船だった。これが設計に55日間、着工後は50日間で完成た「ヘダ号」(プチャーチン命名)である。」


写真は「ヘダ号」の模型。
当時はクリミア戦争が始まっていたので、軍艦を失って心細かったプチャーチンは「ヘダ号」の完成にたいそう喜び、日本もまた近代的な造船技術を習得できたのである。勝海舟はのちに「このロシアの一大不幸はわが国には幸いとなった」と『海軍歴史』の中で書いている。
さらに韮山代官江川英龍は、新選組の近藤勇や土方歳三とも重要なつながりを持った人物であるが、それについては別項で記すことにする。
なお伊豆は湯河原からも近いので、周辺観光の場として紹介した。
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2005/11/23(水) 17:41:14 | 世に倦む日日