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激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 沢田研二と手塚治虫 その2
2007年07月25日 (水) | 編集 |




■手塚治虫の伝奇マンガ『どろろ』が映画化され、そのDVD売り上げがアニメ『ゲド戦記』を抜いて1位になったと今朝のニュースで言っていた。
原作であるマンガの内容が障害者差別に当たるとのいわれなき偏見のため、アニメ化された『どろろ』は長い間再放映を禁じられ、幻の作品として語り継がれてきた。
そうした暗く長い日々を思うと、映画になって今再び大きな脚光を浴びているという事実に時の流れの不思議さを感じる。

手塚が亡くなって追悼本が出たとき、ただひとり手塚とその業績を全否定した文章を寄せたのが宮崎駿だった。
批判するのはよい。宮崎にとって手塚は、打倒し乗り越えなければならない大きな父親のような存在であったから。
しかし対象が死んで何も反論できなくなってから情け容赦なく切り捨てるのは、やはり大人のすることではないだろう。
確かに手塚も数多くのマンガ家に対し稚気とも思える程のむき出しのライバル心を燃やしていたが、その場合も愚かしいくらい当のライバルに面と向かって「僕にもあなたと同じ絵が描けますよ」などと言いつのったものだ。

手塚という父を葬った宮崎は、今度は息子から父親殺しを陰のテーマに持つ『ゲド戦記』を突きつけられた。
その『ゲド』は手塚の『どろろ』に脅かされている。
そして『どろろ』にも父・醍醐景光と息子・百鬼丸が対決する場面があるのだ。

ジュリーこと沢田研二は、主題歌「時の過ぎゆくままに」で有名なTVドラマ『悪魔のようなあいつ』で愛され常に保護される側の青年を演じた後、近作の映画『幸福のスイッチ』で電気屋の頑固親父を好演した。

いずれも時の過ぎゆくまま、その時の帰結のさまにはひどく感慨深いものがある。



■手塚治虫は自著の中でこう記している。

漫画は虚像である。
漫画は奇矯である。
漫画は傲慢である。
漫画は感傷である。
漫画は情念である。
漫画は愛憎である。
漫画は抵抗である。
漫画は破壊である。
漫画はキッチュである。
漫画は自慰である。
漫画はセンス・オブ・ワンダーである。


      『ぼくはマンガ家』より




ゆえに私はこう告げたい。

ジュリーは虚像である。
ジュリーは奇矯である。
ジュリーは傲慢である。
ジュリーは感傷である。
ジュリーは情念である。
ジュリーは愛憎である。
ジュリーは抵抗である。
ジュリーは破壊である。
ジュリーはキッチュである。
ジュリーは自慰である。
ジュリーはセンス・オブ・ワンダーである。



……と。


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2007/09/15(土) 15:58:16 | 権力とマイノリティ