激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 ラーメン「光玉」と、関東大震災の爪痕を刻む根府川の釈迦堂を訪ねて
2016年01月13日 (水) | 編集 |

 久々の休日の2日目。
午前中は猫の世話だの雑用だのでアッと過ぎ、お昼はご近所のラーメン店に行って
みることにした。わりと近くで、何度となくお店の前を通り過ぎていたにもかかわらず
来店するのは今回が初めて。世の中、そんなもんだ





真ん中の小さなお店が「ラーメン光玉」。
カウンター席は定員8名で、座ると身動きがとれない(-_-;)
調理場も同様で、女将さんを中心に、左右に補助の男性が2名。
自由に動けないので、その場でそれぞれが調理する。
女将さんがメインの調理で、左の男性が麺をゆで
右の男性が餃子を焼く…というように。





チャーハン 700円。
食べて驚いた。高温で手早く調理されたご飯は
信じられないくらい軽くてふわふわで、口の中で溶けるようだ。
チャーハンもスープも、昔ながらの懐かしい正統な味つけで
似たようなスープは、お台場の中華料理店で飲んだっきりだ。
これはうれしい発見だった





ラーメン600円。
これも昔懐かしい味でホッと心がなごむ。
幼稚園の頃まで住んでいた津田沼駅前の家の隣りが
小学校も一緒だったしげこちゃんの中華料理店で
お店の人が庭先で、スープに使う豚や鶏の骨を
ナタで割っているのをよく見てたものだ。
あの頃のラーメン(中華そば)の記憶が蘇ってくる。










 昼食の後、まだ日があるうちに根府川(小田原市)に行った。
根府川に関しては、当ブログでも過去に2回くらい書いたことがある。
そのうちの一つが、詩人・茨木のり子の「根府川の海」に言及したものだ。

     初秋の「根府川の海」 2006年12月5日
       http://tekcat.blog21.fc2.com/blog-date-20061205.html






根府川といえば、やはり青い海、青い空のイメージが強い。





根府川駅の近くに、釈迦堂入り口と記した
石の案内がある。本日の目的は、この「釈迦堂」だ。



 

頭上には東海道線の赤い鉄橋が。





冬の青空に鮮やかな赤が映える。





鉄橋に沿って、なだらかな坂を登っていくと
(これがまた神経の疼痛に悩む私にとっては辛い)
10分くらいで、釈迦堂にたどり着く。
手前には白糸川が流れている。





うっそうとした木々に囲まれて
あまり目立たずに建っている。





釈迦堂正面。
実はこのお堂があることは、去年の東京新聞の
鉄旅コラムで知ったばかりで、場所的に近いにもかかわらず
ラーメン光玉と同様、ようやく訪ね着いたわけである。





釈迦堂の中に足を踏み入れると、壁に由来書きが。





「白糸川の釈迦如来」
根府川の旧家広井家の古文書によると…
22代目広井長十郎重友の時代に地震が頻発し、
特に寛永9年(1632年 江戸幕府2代将軍・秀忠が亡くなった年)と
正保4年(1647年)、慶安元年(1648年)に起きた大地震で
民家は壊れ死者も多く出た上に津波も襲ってきたので
世相の安寧のために、長十郎重友が岩泉寺境内の岩盤に
釈迦尊像を像立した。その後の万治2年の大洪水で岩泉寺は現在の
高台へ移転したが、釈迦尊像は岩盤に彫られていたのでそのまま
残った。そして大正12年(1923年)9月1日、関東大地震が起こった。
「お釈迦さまは上の鉄橋が落ち其の上に山津波の土砂で埋没して
しまいました。お釈迦さまは目の高さより上に拝むように刻まれて居たの
ですが、土砂に埋まったので現在の洞の中のお釈迦さまとなったのです。」





階段を下ると…。





岩盤に彫られた釈迦尊像が。
大震災時の山津波のすごさを後世に伝えている。
お線香をあげてきた。





釈迦堂の脇を流れる白糸川は、根府川の海へと注ぐ。
この海の沖合が、関東大震災の最初の震源地だった。
激震で駅の裏手が崩れて、駅舎と列車を海へ押し流した。
また白糸川に沿って、かつての根府川関所があった。
関所跡に行ってみたが、そこには説明看板しかない。
関所も大震災のさいに流されて、川底に眠ったままだという。





駅の近くに植えられたカンナ。
また暑い夏になれば、赤やオレンジの大きな花を咲かせるだろう。








     参考として






1923年 関東大震災の震度分布(大正関東地震)
 「防災情報のページ」 大正12年 関東大震災 概要より
http://www.sei-inc.co.jp/bosai/1923/



 鹿島建設のサイトより
 
     特集:関東大震災を知る
     http://www.kajima.co.jp/news/digest/sep_2003/tokushu/toku02.htmstudy2

             3度揺れた首都・東京

 これまでの当社の研究による結論からいえば,3度の揺れのうち,最初が本震,あとの2回は余震である。そして本震は,ふたつの大きな断層の滑りが短時間に連続した「双子地震」であった。
 本震の双子地震とは,最初の大きな断層の滑りが神奈川県の小田原の直下で発生し,約10~15秒後に三浦半島の直下で2度目の大きな滑りが起こったと考えられる。ふたつの滑りによる揺れの差を感じたのは震源の近くで被災した人々だけだ。最初の滑りの真上にあたる小田原ではいきなり上下動をともなう激震に見舞われ,2度目の滑り地点に近い藤沢の小学校では,やや緩い揺れがしばらく続いたのちに,校舎が瞬く間に倒れるほどの激しい上下動をともなう揺れが襲ったという。
 一方,震源から離れた東京では,双子地震の本震を30~60秒にわたる“一度目の揺れ”として感じたことになる。そのあとに2回の余震の揺れを感じたため,都合“3度の揺れ”を感じる結果となったのだ。1回目の余震の揺れが,本震以上だったとする体験談もあるほどだ。ところが,地震計の針が本震ですぐに振り切れて余震を記録できなかったものが多く,3度の揺れが解析されない原因となってきた。
 今回の研究で全国の記録を調査した結果,岐阜測候所の上下動の地震計が,図1に示すように,本震と2回の余震を区別して完全に記録していることが判明した。この記録とさまざまな資料や体験談を分析し,2回の余震の震源を推定したのが図3である。
 震源の規模を示すM(マグニチュード)でいえば,長さ130kmもの巨大な断層面でM8クラスの本震が双子地震で起こり,その3分後にM7クラスの大余震,さらに1分半後にM7クラスの大余震が再び発生したことになる。その度に関東各地は強い揺れに見舞われ,断続的に5分間の激震が襲った──これが関東地震の揺れの正体であった。





    


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