5月11日は土方歳三が箱館戦争の最中、一本木関門で戦死した日である。
早朝、新政府軍の総攻撃が開始された。箱館政府(旧幕府軍)のメンバーである
新選組(隊長は相馬主計)は箱館奉行・永井尚志と共に弁天台場に立てこもった。
約250名。
同日明七つ半時、砲撃声に廓中人員城外に進み見るに敵海軍大進撃、直に兵を七重浜に出す、箱館はただ土方兵を引率して一本木より進撃す、土方、額兵隊を曳て後殿(しんがり)す、故に異国橋まで敵退く、大森浜の敵の一艦、津軽陣屋を見掛て打つ、彰義隊は砂山にて戦う、七里浜へ敵後より攻め来る故に、土方これを差図す、故に敵退く、また一本木を襲に、敵丸(てきだま)腰間を貫き遂に戦死したもう、土方氏常に下万民を憐み、軍に出るに先立て進みし故に、士卒共に勇奮うて進む、故に敗をとる事なし 『立川主税戦争日記』より
5月11日の早朝5時頃、新政府軍が総攻撃を始めた。
五稜郭の箱館政府軍は七重浜に兵を出し、陸軍奉行並(陸軍中将)である土方歳三も
馬にまたがり、彰義隊、額兵隊、見国隊、社陵隊、伝習士官隊ら約500名を率いて出陣。
弁天台場の窮地を救おうとしたが、新政府軍の猛攻撃を受け、銃弾に腰を撃ち抜かれて
落馬。即死だったという。享年35歳。
5月15日、弁天台場の新選組・相馬主計は五稜郭の榎本武揚総裁と協議して降伏。
ここに新選組は終焉を迎えたのだった。
5月17日、ペリー来航時に堂々と対応したことで知られる中島三郎助が息子たちと共に
戦死。翌18日、五稜郭の箱館政府幹部らも降伏し、徳川の長い時代も幕を下ろした。
歳三ビールと猫のマヨ。
小島政孝氏(小島資料館館長)の著書『新選組余話』より。
両雄實録
小島資料館に『両雄實録』という綴りが一冊ある。
目次をみると次のようになっている。
血涙集
両雄士伝 小島為政撰 亥五月改正(明治八年)
同 大槻磐渓朱加
磐渓翁碑文 写 二通
両雄士伝 井上友助撰 倉田幽谷先生朱加
血涙集は近藤勇、土方歳三の追悼詩集である。有名な漢学者から知人、親戚、関係者にいたる詩文を集めてある。
七言絶句 73
七言律詩 12
五言絶句 2
五言律詩 1
和歌 13
俳句 3
漢文 2
合計106の詩文がある。このことからも、いかに多くの人が彼ら二士の死を惜しんだかがわかる。
のちに石坂昌孝がこれらの詩の一部を三本の軸に収めて書いたものが小島資料館に伝わっている。石坂は、近藤勇の門人で、のちに自由民権運動で活躍し、第一回衆議院選挙で当選し国会議員となった。