激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 京都・西本願寺で新選組の新たな記録を発見
2014年09月03日 (水) | 編集 |

21世紀に入り、幕末維新史における新選組の新たな見直しがようやく本格化し
これまで見逃されてきた文書や史料も次々と発見されている。


これは9月3日の東京新聞に掲載された記事で、西本願寺の北集会所を新たな屯所とした新選組が京の猛暑に苦しみ、歳さまが待遇改善のため阿弥陀堂も借りたいと寺側に申し出たという記録が見つかったそうだ。
しかしなにぶん未だに新選組嫌いの本願寺の解釈なので(^_^;) 「当時の新選組は崩壊の危機にあった」云々の解釈つきだが、新選組が崩壊の危機にあったのは池田屋事件以前のことで、西本願寺時代は隊士も増え、安定した日々を送っていた。 
しかしながら、「暑くて暑くて、もう我慢できねぇんだよ。どーにかしろぃ(#゚Д゚)!」とブチ切れそうな歳さまの心情が伝わってきて、たしかにこれは貴重な文書といえる。




さて以下に転載するのは、8割の市民が新選組嫌いだとされる(ノ∀`)
地元京都の新聞記事。
…のわりには東京新聞より多少好意的な内容であり、しかも永倉新八の手記より
信頼性が高い史料と断定しているところがうれしい。
晩年の永倉の回想をさらに改竄した新聞記事がひとり歩きして、これが逆に新選組を
貶める結果になっていることは否めないからだ。
今後も新たな史料が発見されて、新選組研究にさらなる弾みがつくことを願ってやまない。


     京都新聞 9月2日
       http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20140902000121

            土方歳三の苦悩生々しく 京都・西本願寺で新選組文書発見   


写真の説明:西本願寺で見つかった新選組関連の史料。手前は阿弥陀堂50畳の拝借を求めたことが記された文書(2日、京都市下京区・西本願寺)西本願寺で見つかった新選組関連の史料。手前は阿弥陀堂50畳の拝借を求めたことが記された文書(2日、京都市下京区・西本願寺)

 西本願寺(浄土真宗本願寺派本山、京都市下京区)が、幕末に境内に駐屯した新選組とのやりとりを書き留めた文書類を発見し、2日発表した。当時の状況を記した史料はこれまで知られていなかった。「鬼の副長」と皆に恐れられた土方歳三の苦悩や焦りがにじむ貴重なものという。

 寺の日記など計14点で、新選組が境内に入った1865(元治2~慶応元)年と、寺を出る67(慶応3)年のやりとりが分かる。

 このうち、慶応元年6月の「諸日記」には、200畳の広さがある北集会(しゅうえ)所に駐屯した隊士の様子が生々しく記されている。土方は畳1枚に隊士1人が寝る手狭な環境と炎暑によって、「誠々以凌兼」(誠に誠に我慢できない)ので病人が出て隊士の不満を制止できないと、同寺に窮状を説明し、阿弥陀堂の一部、畳50枚分の貸与を願い出た。寺側が代替案として北集会所の改修を申し出ると、土方から感謝の手紙が届けられたとの記述があった。

 調査した本願寺史料研究所の大喜直彦上級研究員(53)は「土方が隊をまとめるために苦悩していたことが伝わる。『一畳一人ツツ位之割』の記述から、隊士が200人ほどだったことが分かる」とする。

 また、西本願寺が僧侶らに対して、隊士に傲慢(ごうまん)な態度を取るなとお触れを出したことや、同寺のほか寺と関係する商人が合わせて計500両を新選組に支払ったことも記録されていた。当時の門主が北集会所近くにあった「御成道(おなりみち)」を使わず新選組を避けるように同寺に出入りしたことや、新選組が寺を出て行くことに尽力した寺関係者に褒美を与えたことなども記されており、新選組に対する同寺の複雑な胸中がうかがえる。


■信頼性高い史料

 京都女子大非常勤講師の中村武生さん(幕末政治史)の話 新選組が西本願寺に旅宿(駐屯)したころの具体的な動きを知る同時代史料はなく、リアルで信頼性が高い。幹部の永倉新八が後に記した手記の影響で、新選組が西本願寺に対する嫌がらせを継続させたように理解されているが、少なくとも駐屯初期はお互いに配慮していたことが分かる。今回の史料は永倉の手記の検証にも役立つ。





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