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 芹沢鴨暗殺に新事実
2013年09月21日 (土) | 編集 |

また一つ、幕末の新選組に関する新事実が発見された。
今回は芹沢鴨暗殺にまつわる謎を解き明かす、なるほどと思える文書記載だ。







京都の八木邸 芹沢暗殺の部屋。 2013年5月14日




   共同通信 9月16日
     http://www.47news.jp/CN/201309/CN2013091601001753.html

     新選組・芹沢鴨暗殺に新説 会津藩、無断行動に怒り?

 酒乱で乱暴者だったことを理由に暗殺されたとの説が有力な新選組の初代局長芹沢鴨が、殺される直前、攘夷派だった有栖川宮家に奉公を申し出ていたことが、宮内庁が所蔵する「有栖川宮家日記」の記載で16日までに分かった。

 記載を確認した幕末維新期の人物史研究家、あさくらゆうさん(44)は暗殺の背景について「無断の申し出が、新選組を管理していた会津藩の怒りを買ったためではないか」と分析している。

 日記などによると、幕末の文久3(1863)年9月13日、芹沢は浪士15人を率いて事前連絡なしに有栖川宮家を訪れ、有栖川宮熾仁親王に仕えたいと申し出た。



芹沢は確かに酒乱であったが、教養が高く面倒見の良い人物でもあり、
これまで描かれてきた人物像はあまりに悪人ぶりがひどくて、にわかには賛同できない
部分が多々あった。
水戸天狗党の残党だった芹沢は尊攘激派であり、一時期近藤勇もその思想に共鳴し
同じ試衛館メンバーである井上源三郎や土方歳三も危惧を抱いたことがあった。

そもそも新選組を単なる無頼の徒だの、食い詰めた佐幕派の剣客集団だのといった
誤った先入観で見るからわけがわからなくなるのであって、彼らはれっきとした思想集団
であり、局長の近藤勇は剣客というより優れた政治家であった。
また会津藩預かりになってからは、近藤・土方によって、同志集団から近代的官僚組織へと
変貌していく。その証拠として、新選組は公印を用い、公文書を作成していたのだ。

したがって芹沢をはじめとする幾多の粛清や同志たちとの軋轢には、思想的な対立がからむ
事案が多かった。後の参謀・伊東甲子太郎一派(高台寺党)の分裂と暗殺も同様である。



  最初の屯所である八木邸については、こちらをどうぞ

      京都日帰り新選組めぐり  ~その2 壬生屯所・新徳寺・壬生寺~
         http://tekcat.blog21.fc2.com/blog-date-20130516.html




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