激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 京都日帰り新選組めぐり  ~その3 四条大橋・鴨川・先斗町・桝屋~
2013年05月17日 (金) | 編集 |

だいぶ時間が押してきたので、大宮通りからバスで祇園方面へ行くことにした。
二条城と京都御所の見学はパス。二条城は、はるか昔の修学旅行で見たし。
祇園の手前の四条京阪前でバスを降りた。
それにしても京都のバス路線はわかりづらい。
行き先を間違ったから降ろしてと頼んでいる旅行客も数組いたくらいだ。





四条大橋・鴨川・先斗町納涼床いづもや







  

左:四条京阪バス亭
右:四条大橋のたもとにある「出雲の阿国」像。 


  

四条大橋からの鴨川の眺め。
向こう側に見えるのが三条大橋。 
この四条大橋の上で文久3年3月25日
京都残留浪士のうち、近藤、芹沢グループに属さない
鵜殿鳩翁系の殿内義雄が近藤らに暗殺された。
殿内は主導権争いの最初の犠牲者でもあった。




鴨川に沿って、夏の風物詩である「納涼床」が並んでいる。




お腹がすいていたので、橋から見える一番手前のお店に入った。
「先斗町いづもや」というお店だ。



   

鴨川に張り出して作られた納涼床。
すぐ下を鴨川が流れ、川風が涼しい。
贅沢だなあ。
橋の上にいる人たちが、こちらを眺めている。




ツレはうなぎ、私はひょうたん弁当を頼んだ。
器が面白い。




蓋を開けるとこんなかんじ。
色とりどりで、いかにも京都って雰囲気だ



   

左:お店の横に「京名所 先斗町」の札が。
「先斗町(ぽんとちょう)の呼名は、ここの人家がすべて川原の
西側にたち、先ばかりに集中したところから先斗町と呼ばれたともいい、
葡萄牙語(PONT)英語の(POINT)の発音によったともいわれる。」
中:風情たっぷりの先斗町の狭い路地と家並。
新選組の隊士たちもこうした路地を駆け抜けたんだろうな。
右:家と家の間の隙間を抜けていくと…。






木屋町通・桝屋跡(古高邸)・岬神社(土佐稲荷)


   

木屋町通に出た。
池田屋事件の夜、近藤隊は祇園会所から四条大橋を渡り
木屋町通を抜けて池田屋にたどり着いた。
中:「本間精一郎遭難の地」の碑。
尊攘激派の本間精一郎は寺田屋事件以後酒色に溺れ
文久2年(1862)8月20日、料亭からの帰りに刺客たちに襲われ
惨殺された。8人の刺客の中には薩摩藩の田中新兵衛や
土佐藩の岡田以蔵の名もあった。
右:高級料亭「たん熊」の車が。京都だわあ(^^;;



    

左:木屋町通に沿って流れる高瀬川。
右:とある路地に入って歩いていくと…。





現在は「しる幸」というお店になっている
「桝屋」こと、古高俊太郎邸跡を発見。



    

古高俊太郎は池田屋事件の発端になった人物。
薪炭商「桝屋」湯浅喜右衛門を名乗る。
8.18の政変で京を追われた長州藩士たちは
翌元治元年(1864)4月以降、再び市中に潜伏するようになった。
そんな中、かねてより不審視されていた桝屋は6月5日
新選組に捕縛され、拷問の末に自らを近江出身の
尊皇家・古高俊太郎であると自白。改めて枡屋を調べると
木砲や火薬、具足、偽の会津藩の提灯、密書類が見つかった。
密書に書かれていたのは御所付近への放火と中川宮朝彦親王と
松平容保の殺害と孝明天皇の長州への奪去という計画だった。
(古高だけでなく他の複数の浪士集団がテロを計画していた
という研究もある)。古高捕縛の報はすぐに長州藩邸に伝わり
古高を奪い返す対策を練るため、急遽池田屋での会合が決まり
浪士たちが集まった。そこへ探索中の近藤隊が踏み込んだのである。



   

高瀬川に沿って木屋町通を歩いていくと
「日本映画発祥の地」という札がある。
「当地は明治30年(1897)、実業家であり、後に大阪商工会議所会頭も
務めた稲畑勝太郎(1862~1949)が日本で初めて
映画(シネマトグラフ)の試写実験に成功した場所である。」



    

その隣りに「土佐藩邸跡」の石碑がある。
「此付近土佐藩邸跡
高瀬川を渡った西側、河原町通に至る間の元立誠(りっせい)小学校
の辺りには、江戸時代、土佐藩(現在の高知県)の藩邸があった。
当時は高瀬川に面しても門が開かれ、高瀬川には土佐橋が架かっていた。
(中略)なおこの西側に鎮座する土佐稲荷・岬神社は、
もと藩邸に鎮守社として祀られたもので、同社に参詣する
町人のために藩邸内の通り抜けが許されていた。」



    

高瀬川に架かった蛸薬師橋を渡ると
神社らしき建物が見える。



    

岬神社(土佐稲荷)
祭神は「倉稲魂命」と「石栄神」の二柱。
室町時代初期に鴨川の中洲の岬(突端)に
祠を建てたのが由来とされる。
江戸時代初期に土佐藩の京屋敷内に遷された。




境内の坂本龍馬像
龍馬や中岡慎太郎も詣でていたという。






スポンサーサイト


コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック