激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 京都日帰り新選組めぐり  ~その1 不動堂村屯所跡・島原・油小路~
2013年05月15日 (水) | 編集 |

そんなわけで、幸いお天気にも恵まれた中、京都新選組史蹟めぐり日帰りの旅に
出発! と華麗に決めたかったが、家を出る前に部屋猫たちの餌やりとトイレ掃除、
猫のラッキーに薬を飲ませてブラッシング、外猫とアナグマの餌やり…と湯河原駅に
着く前に、ぐったり疲れ果ててしまったのであった(ヽ´ω`)






一応こんなかんじで巡ろうかと。
最も手近にあった新選組関連の薄い雑誌をコピー。
おいおい、いくらでも詳しく解説した本を持ってるのに
こんな適当な準備でいいのか? という心の声を無視。
忙しかった大型連休の疲れで計画を立てる気力も残ってないし
ま、行けばなんとかなるさ。




    

さすがに京都までは車じゃ無理。熱海で乗り換え、三島駅へ。
右:三島駅のホームに「韮山反射炉を世界遺産に」とのポスターがあった。
この反射炉を作った幕末の伊豆の名代官・江川英龍は新選組とも深い
関わりを持っていた。人権と民主主義に深い共感を持つ江川が開いた
韮山塾では佐久間象山も学んだのだ。
 



   

6時51分発大阪行のこだまで、いざスタート。
新幹線に乗るのは久しぶりだ。 右:名古屋駅。
途中から通勤客や修学旅行の生徒たちがたくさん乗り込んできた。






9時半過ぎに京都駅へ到着
青春時代にはよく来たもんだ。
東京駅から深夜バスに乗って早朝に京都へ着いた時が一番きつかった。



   

すっかり新しくなって巨大構造物と化した京都駅。
びっくりした(゚д゚)!





できた頃にいろいろ批判をあびた京都タワーが
逆にかわいらしく見える
さっそく市内を歩いてみることにした。











新選組不動堂村屯所跡



    

左:京都駅前の通りが「塩小路通り」。
右:その先の歩道橋を昇って
リーガロイヤルホテル京都を眺める。
「醒ヶ井通木津屋橋下ル」にあった局長・近藤勇の
休息所(深雪太夫とお孝を囲った妾宅)の場所は
現在の堀川通り付近だという。
この歩道橋あたりだろうか。
 





ホテル前に「新選組不動堂村屯所跡」の碑が建っている。
新選組の3番目の屯所で、慶応3年(1867年)6月15日に
2番目の屯所・西本願寺から移転し、伏見奉行所に移るまでの
約半年間をここで過ごした。
ただし実際に屯所があった場所は、今は廃校になった安寧小学校が
昔、尋常小学校だった頃に建っていた場所だそうだ。
時代の変遷による土地開発でなくなってしまった場所や道も多く
過去の痕跡を探すのはなかなか難しい。






事あらばわれも都の村人となりてやすめん皇御心
新選組局長 近藤勇






この付近 新選組 不動堂村屯所跡

新選組が屯所を西本願寺から不動堂村へ移転したしたのは、近藤勇らが
幕府直参になった五日後の慶応3年(1867)6月15日であった。
移転に際し、土方歳三の指示で吉村貫一郎が西本願寺と交渉の末、
建築費並びに諸経費を西本願寺が負担することになった。
 屯所の広さは1万平方メートル。表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、
近藤、土方ら幹部の居間、平隊士の部屋、客間、馬屋、物見中間と小者の部屋、
大風呂は30人が一度に入れた。大名屋敷と比べても遜色ない構えだった。
12月14日、伏見奉行所へ引き払うまでの6ヵ月間、屯所として使用した。

2003.6.15
霊山歴史館 木村幸比古 識






梅小路公園と島原住吉神社



   

左:リーガロイヤルホテルの裏を通って西へ歩くと
粟嶋堂(宗徳寺)があった。婦人病平癒の神だそうだ。
境内には与謝蕪村の「粟島へはだしまゐりや春の雨」の句碑が。
中:京都豆腐会館だって(^_^;
右:さすが、地名がスゴイ。下京区 塩小路通黒門西入 八条坊門町。



    

梅小路公園を通って島原へ行こうとしたのだが
思ったより園内が広くて難儀した。
左:芝生広場と京都水族館。
右:暑い! 京都は32度を超す真夏日。
水辺のベンチでパーカーを脱ぎ、リュックに入れた。
ポケットに入れていた地図も一緒にしまったので
あとは勘を頼りに進むしかない
 


    

好きなポピーの花が咲いてたが、鑑賞の余裕なし
ふだんあまり日に当たらない生活をしているもので
突然の真夏日に、熱中症になりかかった。
おそるべし、梅小路公園。
公園の外の自販機でスポーツドリンクを買って飲んだら
急速に元気を取り戻した ふう。
 





島原住吉神社



   

左:由来書きを要約すると…島原中堂寺町の住吉屋太兵衛が自宅で祀っていた
住吉大明神に良縁のご利益があったので、祭神を島原の広大な地に移し、
例祭や太夫・芸妓の仮装行列である「練りもの」が盛大に行われてきた。
ところが明治維新の廃仏毀釈により廃社にされてしまった。
その後、多くの信者のおかげで再興を重ね、社名も元の島原住吉神社に復した。

中:島原西門碑の要約…寛永18年(1641)にこの地に遊郭が移転された。
その移転騒動が島原の乱を思わせたので、「島原」と呼ばれるようになった。
島原は遊郭だけでなく和歌俳諧が盛んで、江戸中期には「島原俳壇」を形成した。
島原には大門だけでなく西門もあったが、昭和以降2度も車にぶつけられ倒壊した。

右:元の西門のレリーフ。




   

左:この案内板をちゃんと見て、奥の道を進めばよかったのだが…。
中:そのまままっすぐ歩いていったら、これまた広大な中央卸売市場の
迷路にはまってしまった 西門を壊したのは市場の車だな
右:五条通に出てしまったので、脇道を通ってバックしようと思ったら、
あれ、見覚えのある「誠」の旗が。






手作りの「新選組記念館」






ぐわっ! もしかして、ここが噂の「新選組記念館」か?
それにしても、ぶったまげの外観だわ



   

中に入ったら、もっとぶっ飛び状態(*゚ロ゚)
普通の展示&グッズショップかと思ってたのに
これはカオス・ワールドではないか!






出た! 館長の青木繁男さん(京都史跡研究家)。
青木さん曰く「京都の人間の85%は新選組が嫌いです。
これは学校の先生の責任ですね」



   

左:膨大な数の書籍と栗塚旭(「新選組血風録」「燃えよ剣」で土方歳三を演じた)のサイン。
中:懐かしい、大河「新選組!」のポスター。
右:松平容保の写真と土方のミニ像。
お宝の山だらけだけど、どこに何があるのかわかりましぇーん



   

新選組関連のコミックや同人誌。
最近は斉藤一人気が強いねと言う青木館長は、手作りの隊旗を持ってきて
記念撮影をしてくれたり、お昼にはぜひ近くのスーパーで鯖寿司を買って
食べてみなさいとか、いろいろな史蹟の場所を教えてくれたりと
とっても親切で、ほんとうにありがとうございましたm(_)m
未だに逆賊扱いの京都で、新選組の伝道師として今後もがんばってくださいね。





輪違屋・角屋・島原大門


    

青木さんが教えてくれた方向へ進む。
って、なんかゲームやってるみたいな感覚(^^;
左:またまたスゴイ地名。「坊城通中堂寺上る中堂寺壬生川町」
右:歌舞練場跡記念碑
明治6年(1873)に島原女紅場として開設され、
青柳踊や温習会の上演で隆盛を誇っていたが、
平成6年(1996)に歌舞練場120余年の歴史を閉じた。
宝暦のむかしの夢は見は見つれ 夜半の投節聴くよしもなし
吉井勇(歌人)
 





おお、やっと目的地に到着。






新選組総長・山南敬助の馴染みだった芸妓の明里、
参謀・伊東甲子太郎と馴染みの花香太夫がいた置屋「輪違屋」。
現在も宴会などの営業をしている。
なお芹沢鴨の暗殺時に危うく難を逃れて逃走した平間重助(水戸浪人)と
その夜同衾していたのが、輪違屋の糸里である。



   

左:「誠の湯」だって。近くの旅館が経営しているらしい。
中:珍しく標識があった。島原大門・西門と角屋の方角案内。
右:「角屋(すみや)」の案内板。
角屋は島原を代表する揚屋(現在の料亭)で昭和60年(1985)まで営業。
島原には揚屋(あげや)と置屋(おきや)があり、揚屋は太夫・芸妓などを
一切抱えず、置屋から太夫等を呼んで宴会を催す場だった。
角屋にある与謝蕪村の「紅白梅図」は重要文化財に指定されている。
幕末には西郷隆盛や久坂玄瑞ら勤皇の志士らが資金調達のために豪商を
招いて会議を行い、彼らを探し求めた新選組が乱舞した場所でもあった。
ふ~ん、さすが新選組に冷たい京都市ならでの表現だわ。






角屋。国指定重要文化財建造物。
現在は「角屋もてなしの文化美術館」になっている。
角屋自体の説明には、上の京都市の解説とは違って
「幕末ごろは、新選組の局長クラスの宴会があり、
また隊士が勤皇派を探索に来ましたが、
ここでは池田屋のような乱闘はありませんでした。」
って書いてあるけど(^-^)



   

左:外観の格子造り。京の近世初期の町家の形を残している。
中:美術館入口。「扇の間」や「青貝の間」を見学できる。
右:「新選組刀傷の角屋」の碑。
壬生浪士組時代の筆頭局長・芹沢鴨(水戸浪人・水戸天狗党系列)は
生糸商大和屋を焼き討ちしたり(実際の主犯は勤皇浪士という証言もあり)
力士と喧嘩をしたり、角屋では鉄扇を振り回して陶器類を叩き壊し
勝手に7日間の営業停止を命じたりした。
しかし「8.18政変」で長州藩の過激派が一掃された後は、公武合体路線の
近藤派が芹沢派より優位に立ち、文久3年(1863)9月18日(16日説もあり)、
新選組の幹部たちが角屋で宴会を開いた後、屯所の八木邸へ戻った芹沢一派は
土方・沖田らの襲撃を受けて壊滅した。



   

左:近くの家。暖簾に「きんせ(旅)」とある。
屋根の上の置物がおもしろい。
中:島原大門
右:大門をくぐってみた(^-^;
たくさんの新選組隊士たちや勤皇の浪士たちも
胸を躍らせながら、こうして門をくぐったんだろうな。






「島原」の説明の一部より
島原の傾城(遊宴のもてなしを公認された女性)の最高位である太夫の名称は、
慶長年間、四条河原で六条三筋町の傾城が女歌舞伎を催したとき、
優れた傾城を「太夫」と呼んだことが始まりとされている。
太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子をいう。

関東のいわゆる「花魁道中」は、実際に目の前で見たことがある。
大河『新選組!』の中で、沖田の姉・みつに花魁と言われた深雪太夫が
花魁ではなく太夫だと言い返すシーンが印象に残っている。





新選組2番目の屯所・西本願寺



    

左:大宮通をてくてく歩く。暑い(;´Д`A
通りの名前が違ってたらごめん。左側はもう西本願寺だ。
右:龍谷大学図書館の角を曲がると、立派な山門があった。







その隣りの、これまた立派な国宝の唐門。
壬生の屯所(八木邸、前川邸)が手狭になった新選組は元治2年(1865)3月
倒幕派を擁護していた西本願寺を監視する意味もあって、ここに移転した。
屯所として使用したのは北会所と太鼓楼および堂宇。
北会所の建物は明治時代に解体移築され、現在は姫路市の亀山本徳寺本堂に。
新選組監察・島田魁は、後年西本願寺で警備員を勤めた。
また屯所移転にあたって山南敬助はこれに強く反発し、このことが2月23日の
脱走と隊規違反による切腹につながったとされているが真相はわからない。
山南は岩木升屋事件で浪人を斬った際に負傷して、以後表舞台から遠ざかった。
脱走の有無も不明で、切腹ではなく突然の自刃で命を絶ったともいわれる。



    

左:両側は龍谷大学になっている。広い。疲れた( ´Д`)=3
右:京都は意外と車通りが激しくて、騒音も大きい。七条堀川通。
ここをもっと北に行けば太鼓楼に出るのだが、逆に歩いてみた。





油小路事件の現場と本光寺





元治元年(1864)9月、藤堂平助の紹介で入隊を決意した江戸深川佐賀町の
道場主・伊東甲子太郎は弟の三樹三郎と同志たちと共に京都へ上った。
その後新選組参謀となるが、水戸学を学び尊皇思想が強かった伊東はやがて
近藤らと対立し、新選組を離脱して高台寺月真院に屯所を構え、御陵衛士
(高台寺党)を名乗った。伊東らの動向は間者として高台寺党に潜り込んでいた
斉藤一によって筒抜けで、慶応3年(1867)11月18日、近藤に招かれた
伊東は自分の妾宅を出て近藤の妾宅を訪れ(~_~) その帰り道、待ち伏せしていた
隊士たちに襲われ、本光寺まで逃げて絶命した。
伊東の遺体は七条油小路の辻に放置され、それを回収しに来た御陵衛士たちと
物陰に潜んでいた新選組隊士たちとの間で壮絶な戦いが繰り広げられた。




   

左:手持ちの本に載っていた、油小路事件現場付近の写真。
ここで斬り合いが起き、藤堂平助・服部武雄・毛内有之助が討ち死にした。
中:事件現場からずっと道を下っていった。とにかく暑い。
右:途中にあった油のお店。油小路の名とは関連がないようだが
事件があった頃から営業していたのだろうか。






伊東甲子太郎が絶命した本光寺。



   

左:伊東甲子太郎の肖像画。
波風のあらき世なれば如何にせん よしや淵瀬に身はしづむとも
中:伊東が寄りかかって絶命した石塔は、今はお寺の中にある。
右:「伊東甲子太郎外数名殉難の地」の説明板。

この場所に来て、不動堂村屯所跡と近いのを実感した。
屯所跡から油小路、西本願寺、島原と逆にたどれば、もっと効率よく
廻れたのに。いやあ、実際に歩いてみないとわからないもんだわ





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