激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 ベレゾフスキーが死んだ
2013年03月24日 (日) | 編集 |

亡命先のロンドン郊外の自宅で、ベレゾフスキーが亡くなった。
享年67歳。たとえどんな人物であろうと、その死は悼むべきものであるが
BBCニュースで彼の死を知って、自業自得という言葉が頭をよぎった。
イギリスの警察は他殺の線はないと発表している。
それにしても、こんなに呆気ない最後を迎えようとは、憎むべき人物では
あったが、なぜか一抹の哀れさを感じざるを得ない。






写真:在りし日のボリス・ベレゾフスキー



   The Voice of Russia 3月24日
     http://japanese.ruvr.ru/2013_03_24/108849755/

        ベレゾフスキーの死:空虚への跳躍

新生ロシアにおいて一様でない役割を果たした個人の一人であるボリス・ベレゾフスキー氏が亡くなった。「裏の枢機卿」、「クレムリンのゴッドファーザー」、「政治冒険主義者」など、様々な評価がなされた人物だった。

ベレゾフスキー氏は実際に謎に包まれた人物だ。ソ連時代は一介の学者であったが、ソ連崩壊後は自動車分野であぶく銭を手にした。そして7年のうちに、安全保障会議副書記というポストについた。フョードル・ルキヤノフ氏によれば、混乱に包まれた90年代のロシアでは、様々な人物が権力の階段を駆け上がり、そして転げ落ちるようにその座から去っていったと指摘している。

-或る時期、ベレゾフスキーはロシアでも5本の指に入る実力者でした。しかしいかなる移行期というものも、その登場人物をいつかは追い払ってしまうものです。ベレゾフスキーも、ロシアが次の発展段階に入った時点で退場となり、影響力を失ったのです。

ベレゾフスキーの最盛期は1996年から1998年だった。北カフカスでロシア人兵士の血が流されていたとき、モスクワではテロリストらの爆弾によって民間人が殺されていたが、ベレゾフスキーは迅速に自らのビジネス上の問題を解決し、大きな金融・メディアリソースを確実に手に入れていった。多くの専門家らは、その鍵となったのが、ベレゾフスキーのエリツィン人脈だったと指摘している。エリツィンが大統領を辞すると共に、幸運の女神もベレゾフスキーを見放したようだ。2000年の11月にはすでに、ロシア検察庁はベレゾフスキーに対して罪状を突きつけ、それ以来、ベレゾフスキーはロシアの地を踏むことはなかった。

海外で、ベレゾフスキーはロシア新政府の信用を落とそうと、自らの政治ゲームを展開したが、成功することはなかった。元FSB将校のアレクサンドル・リトヴィネンコの死をめぐっては、ベレゾフスキーはおそらく英国政府の了解のもとで、「チェキストの仕業」だとするキャンペーンを展開したが、求められていた結果を出すことはできず、逆に英国当局にとっての邪魔者となってしまった。

ベレゾフスキーには大きな失望感もあった。オリガルヒの一人であるロマン・アブラモヴィッチに対する長年にわたるロンドンでの裁判がうまく行かなかったこと、かつての妻の訴えにより、口座が凍結されたことなどによって、事実上、ベレゾフスキーは影響力を行使できなくなり、海外にこれ以上生活できるかどうかも怪しくなった。ロシア大統領府のドミトリー・ペスコフ報道官によれば、ベレゾフスキーがプーチン大統領に許しを請う書簡を送っていたともいわれており、そのなかでベレゾフスキーは、自分が多くの間違いを犯したことに許しを請うているほか、祖国に帰る許可を求めていたという。

ロシア議会下院(国家会議)のアレクサンドル・ヒンシュテイン議員は次のように指摘している。

-彼にとっては周りの人も国もすべて投機と金儲けの対象に過ぎなかった。そして自らの死を、祖国から離れた土地で、友人も、愛も、尊敬もなく迎えた。彼の祖国はもうなかった。それは私からすれば、至極当然であるのみならず、教訓的であるとさえ言える。




ベレゾフスキーに関しては、私も当ブログで何度か記したことがある。
たとえば以下の2010年12月20日の記事のように。

    WikiLeaksの暴露で「リトビネンコ事件」の真相はどうなる?
      http://tekcat.blog21.fc2.com/blog-date-20101220.html





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