激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 木枯らし吹くお江戸散歩 その1 板橋・近藤勇墓所
2012年11月27日 (火) | 編集 |

7日にお江戸散歩をしたばかりなのに、またまた来てしまった東京
やっぱ秋冬は、人通りの多い場所の方がホッとするからね。
食事もトイレも探し回らなくてすむし…(^^;
というわけで、本日は渋谷を基点に回ってみることにした。




   

左:久々の渋谷駅前。小型のハチ公バスが行き交っている。
中:渋谷駅のハチ公の壁画。ハチ公の銅像は通路の反対側にある。
右:SIBUYA109のビル。
渋谷公会堂そばの地下駐車場に車を止めて
電車で移動することにした。






近藤勇が処刑された板橋の墓所に行ってみた


   

最初の目的地はJR板橋駅の「近藤勇墓所」。
左:渋谷駅からJR埼京線で板橋駅へ。
板橋方面はいつも東武東上線で来ていたので
JR板橋駅は今回が初めてだ。
中:ちゃんと案内があった。東口方面に「史跡 近藤勇の墓」。
右:JR板橋駅。駅の前に小さな公園がある。






公園を通り抜けると、すぐ目の前に「近藤勇墓所」!
ち、近い! 道を間違えようがない
ドラマの場所と違って史跡は必ず特定できるので
(当たり前だが)、とてもありがたい。



    

左:他にも何人かの訪問者がいた。
墓所に足を踏み入れたとたん、突然の強風に見舞われた!
さ、寒い 彡(-_-;)彡  勇ちゃんの呪いか?
右:墓所の看板の裏に、壽(寿)徳寺の案内が書いてある。
そうここは、壽徳寺境外墓地なのだ。
しかも現在は板橋区ではなく、北区滝野川7丁目である。
 





墓所の中はこんなかんじ。






入って右側の列。






墓所右側の一番手前にある説明板。
北区指定の有形文化財になっているそうだ。
【慶応4年(1868)4月25日、新選組局長であった近藤勇は、
中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で
官軍により斬首処刑されました。その後、首級は京都に送られ
胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。】






あまり似てない(;^_^A 肖像画。
右から近藤勇、土方歳三、永倉新八。
【本供養塔は没後の明治9年(1876)5月に隊士の一人であり
近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり
旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。
戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分った永倉ですが、
晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています。】






新選組の絵馬。
なになに、喫茶シャトウで売ってるって?
あとで寄ってみよう。



   

左:史蹟 近藤勇、新選組、土方などの単語は読み取れるが
あとは風化してよくわからない。昭和四年と記されている。
中:近藤勇像。
右:像の裏側:平成13年、近藤勇の百三十三周忌に建立された。 



    

左:訪問者が記念に綴ったノート類。
私は面倒くさがり屋の筆不精なので、
今までこうしたノートに書いたことがない。
右:近藤勇埋葬当時の墓石だって。
9月に、近藤率いる甲陽鎮撫隊が官軍の東征軍と戦って敗走した
甲州勝沼の古戦場へ行ってきたが、その後勇は流山(千葉県)で
投降し、ここ板橋宿へ護送されて、4月25日に宿場はずれの
平尾一里塚付近で処刑された。首は板橋宿で3日間晒された後
さらに京都へ送られ、再び3日間晒された。

『新選組情報館』の記述によると、
【平尾一里塚で刎首された近藤勇の胴体が寿徳寺境外墓地とされる
無縁仏に埋められ、明治8年(1875)に近藤勇の墓碑建立を
願い出た願書にも寿徳寺は、連署押印した。
「剣豪秘話」で流泉小史は、昭和4年(1929)に刑場を改修する際に
骨太で頚骨の無い白骨が納められた瓶が現れ、漆汁で「近藤昌宜の屍」と
記した木札が添付してあったと記している。】
 





墓所中央。






永倉新八が建立した供養塔。
新選組関連のお墓や碑は、いつも献花が絶えない。



    

左:説明版より 【高さ3.6メートル程ある独特の細長い角柱状で、
四面の全てにわたり銘文がみられます。正面には「近藤勇 冝昌 
土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の
右に併記されています。なお、近藤勇の諱(いみな)である昌宜が冝昌と
されていることについては明らかになっておりません。
右側面と左側面には、それぞれ8段にわたり井上源三郎を筆頭に
合計110名の隊士などの名前が刻まれています。】
芹沢鴨や伊東甲子太郎の名も刻まれている。

右:同じく説明版より 【裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月廿五日
土方 明治二年巳五月十一日 發起人 旧新選組長倉新八改杦村義衛 
石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていましたが、
一部は現在判りにくくなっています。】
 



   

左:近藤勇の墓。「勇生院頭光放運居士」と中央に刻まれている。
右には「慶応四戊辰年四月二十五日」、左には「近藤勇宜昌」。
しかしこれも諱(いみな)が違っている。正しくは、近藤勇昌宜(まさよし)。
中:無縁仏の墓。
右:供養塔の後ろ側。



    

左:永倉新八のお墓。大正4年(1915)小樽にて没。
右:その裏側。
 





近藤のレリーフ。



   

左:絵馬を売ってるという喫茶シャトウは
朝10時過ぎでもまだ閉まっていたので
周辺の商店街をぶらついてみた。
中:しかしものすごい強風に阻まれ、元の道を戻って
駅前の喫茶店でモーニングを注文した。
右:商店街にズラリと架かっている旗。
「ボンジュール 新選組のまち
さくら通り商栄会 こんにちは」



  

11時に見たら、喫茶シャトウが開店していたので絵馬を購入。
絵馬というより色紙の台紙だが、女性店主にたずねたら
これまで絵馬を作っていた人が高齢になったので、
板ではなく台紙に変えたそうだ。
4月には桜が満開になってきれいだし、近藤の慰霊祭もあるので
その頃にまた来てくださいねと言われた。

裏に押してあるのは、新選組の公印。
未だに新選組のことを私設暴力団のように思っている人も少なくないが
史実の新選組は公印を用い、公文書を作成する近代的な官僚組織だった
のである。最近は「ラストサムライ」ではなく「ファーストミリタリー」で
あったとの正当な評価を受けるようになってきた。喜ばしいかぎりである。
 
 




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