激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 古地図と歩く江戸深川 その1 新大橋・芭蕉庵
2012年10月24日 (水) | 編集 |

きょうは一日お休みの上、久々の快晴。
最初の予定では、先月の甲州街道めぐりの続きで、甲府から下諏訪まで
足を延ばそうと思っていたが、風邪が長引いて遠出は体力的にきついので
見知っている都内をブラブラすることにした。

といっても、観光コースや名所旧跡を漫然とめぐるのは、いかにも能がない。
いつものように自分なりのテーマに沿ってコースを決めなければ…。
というわけで、お気に入りの時代劇ドラマの舞台をたどってみることにした(^^;




    

『陽炎の辻』と『薄桜記』。
左は明和9年(1772)から始まるお話で、
右は元禄4年(1691)から赤穂浪士討入の15年(1702)まで。
どちらも主な舞台が江戸の本所深川で
というか、時代劇の多くが深川周辺を舞台にしているわけで
しかも『薄桜記』の吉良邸がある両国には、私も昔住んでいたし
母方のルーツは、すべて東京の下町。
砂町、毛利町、大島、小梅にはおじさんおばさんたちがいて
父方の祖父の米蔵も隅田川沿いにあった(関東大震災で焼失)から
私自身の大切な故郷の一つでもあるのだ。
 





しかしなにしろ江戸時代がドラマの舞台ということで
前日に深川の古地図(文久2年・1862年版)を眺めてみた。
後に新選組になる浪士組が京にのぼる前年にできた地図だよ。
う~ん、だけどよくわからん(´ヘ`;)






とりあえず家を出て、東京へゴー!
外猫とアナグマの餌やりやら猫のラッキーの投薬とブラッシングやらで
予想外に時間がかかってしまい、出遅れたせいで事故渋滞にはまった
ようやく前方に六本木ヒルズが見えてきた。





“磐音(いわね)”と“おこん”が出逢った新大橋
 




というわけで、深川散歩のスタートは江東区の「新大橋」から。
『陽炎の辻』の最初のシーンが、ここ新大橋の上から始まるのだ。
赤ちゃんだった娘のベビーカーを押して、この橋を散歩したこともあったっけ。



  

左:橋の中央に安藤広重の「大はしあたけの夕立」のレリーフがある。
右:広重の版画。
 
 


    

左:横から見た新大橋。
右:橋の下。
 





橋の中央から隅田川と両国橋を臨む。
川風が強い。






最近、隅田川に沿って散策できる「隅田川テラス」が整備されて
勝鬨橋から白髭橋まで歩くことができるそうだ。






橋の階段を降りて、川沿いのテラスを
上の地図の左方向に歩くことにした。
前方中央に見えるのは清洲橋。



    

テラスのあちこちに松尾芭蕉の句碑が建っている。
「大川端芭蕉句選」
江戸時代は、隅田川のことを大川と呼んだ。




    







    

右の「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」の句は
五味康祐・原作の小説『薄桜記』の中にも出てくる。
深川の庵に芭蕉を植え、
【ちょうど雨が降って芭蕉の大きな葉をそれが打つのを聞いて、
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
の一句を吟じ、そこから後ここを芭蕉庵と呼ぶようになったのである。】

ちなみに有名な「古池や…」の句も、この庵で作られた。






地図の方向が横向きだが
新大橋からテラスを歩いてきて「萬年橋」に出た。





萬年橋
 



周辺のテラスは整備工事中。
橋の下を流れるのは小名木川。



    

萬年橋といえば、橋の欄干に亀をつるした広重の浮世絵が有名だ。



  

左:おっと、葛飾北斎の「深川萬年橋下」もあった(^^;
江戸時代には萬年橋の北岸に、小名木川を航行する船を取り締まる
船番所が置かれていた。そして小名木川に架かる橋はみな
船の航行を妨げないように高く架けられていた。
この萬年橋も美しいアーチ型をしていた。

右:川船番所跡
江戸から小名木川を通り利根川水系を結ぶ流通網は
寛永年間(1624~44)には整備されていた。
関東各地から江戸へ運ぶ物資はすべて小名木川を通った。
明暦の大火後は、川番所は中川口へ移転した。





芭蕉稲荷と芭蕉庵史蹟跡展望公園
 




    

左:萬年橋から再び新大橋方面へ少し歩くと
「おできの神様」というのぼりがあった。
正木稲荷大明神とある。もともとは生け垣に使われる「柾木」の
木のことで、その実が腫れ物に効いたらしい。
右:すぐそばに芭蕉稲荷がある。



    

右:芭蕉稲荷の中に建つ「奥の細道旅立参百年記念碑」。
足元に石のカエルが(^o^)






で、この芭蕉稲荷が芭蕉庵があったところなのだ。
【ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり
幕末、明治にかけて滅失してしまった。】
その後大正6年に芭蕉愛好の石造りのカエルが発見されたことで
芭蕉稲荷が祀られ、常盤1丁目を旧跡に指定したそうだ。






川沿いに少し進むと、階段が。






この木戸口を上がっていくと
「芭蕉庵史跡展望公園」がある。






説明書きによると、ここが一番最初の芭蕉庵で、大火で消失する天和2年(1682)まで
住んで、翌年に友人たちの喜謝を得て、「本番所森田惣左衛門御屋敷」の内部に
第2次芭蕉庵が完成。元禄2年(1689)奥の細道紀行に旅立った後は
さきほどの芭蕉稲荷の場所に杉風らの尽力で第3次芭蕉庵が完成した。
そしてこの庵は、元禄12年に森下町の長慶寺門前に移築されたという。
複雑な経緯だなあε-(ーдー)

『薄桜記』の中にもこういう記述がある。
【芭蕉庵の跡は、大正末期まで六間堀の酒店の裏にあったそうだ。】



    

左:芭蕉像。夜になると川の方向を向いてライトアップされる。
右:展望公園から見た清洲橋。
ドイツ・ケルン市に架けられたライン川の吊り橋を
モデルにして造られた。




さてこの後は、『薄桜記』にも出てきた「六間堀」に行ってみることにする。
続きは、その2でね(^o^)





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