激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
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 初秋の甲州街道を行く  その2 勝沼・大善寺と柏尾古戦場跡
2012年09月14日 (金) | 編集 |



天下茶屋のそばの新御坂トンネルを抜け
山道を下りながら、甲州街道の勝沼を目指した。
トンネルを抜けた辺りでは白樺の白い幹が道の両側に見え
標高が高い場所であることを実感した。



    

左:勝沼・塩山の標識。ぶどうや桃の即売店がそこここに並んでいる。
右:最初の目的地、「ぶどう寺」の愛称で親しまれる「国宝 大善寺」に到着。
 





重厚な構えの山門。日差しが強い
真言宗智山派のお寺で、養老2年(718年)に開創。



    

左:山門へ続く階段の途中にある大ヒノキの木。
平成の薬師堂屋根の修復工事の際、この木の皮も使われた。
階段の左側にはぶどう畑が広がっている。
右:山門にある立て看板。下はその拡大。
 





新選組ファンなら誰もが知っている、甲州勝沼戦争の錦絵。
真ん中に立っているのが新選組局長・近藤勇。
勇は前年の12月、新選組から分離して敵対していた高台寺党の
残党に右肩を銃撃され、重症を負っていた。
このときは甲陽鎮撫隊の名称で出陣し(派遣したのは大久保一翁)、
近藤は大久保剛、土方は内藤隼人と改名していた。





私が持っている本より、同じ錦絵を転載(^^;
しかし、バックの山門が大善寺だとは最近まで知らなかった。
上の看板の説明文は以下の通り。
【旧幕府軍と新選組は、1868年(慶応4年)薩摩藩兵を中心とする新政府軍と
鳥羽・伏見の戦いで敗れ、大阪から江戸へ帰還した。その後、近藤勇を隊長とする
「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」として新政府軍の東進を阻止する目的で、
甲府城の接収を命ぜられ、甲州街道を西へ進んだ。しかし板垣退助率いる新政府
軍3000の一隊はわずか一日の差で甲府城に入城する。近藤は援軍要請のため
土方歳三を江戸へ向かわせる一方、自身は西進し3月5日勝沼に布陣した。
大善寺に本陣を置こうとしたが、大善寺には徳川家禄の寺宝があるという理由
から諦め、大善寺の西側に先頭、山門前及び、東側の白山平にいたるまで細長く
配置されたとされる。当初300名いた隊員は次々と脱走し、このときわずか
121名だったという。戦闘は3月6日正午頃から始まったが、わずか2時間程で
甲陽鎮撫隊は江戸へ敗走することになった。】
  


    

左:山門の仁王像。
右:楽屋堂。
 





楽屋堂から参道をのぞむ。




   

楽屋堂の脇に並んでいる説明板。
中:甲州ぶどう発祥の地 大善寺伝説
今から約1300年前、僧の行基が勝沼・柏尾で修行したところ、
夢の中に右手にぶどうを持った薬師如来が現れた。
行基がその姿を像に刻んで開山したのが、大善寺である。
行基は法薬のぶどうの作り方を村人に教え、これが甲州ぶどうの
始まりだと伝えられている。
右:武田勝頼主従投宿の地
天正10年(1582)勝頼は武田家の復興を誓い、
大善寺に投宿して必勝祈願をした。
しかし奮闘むなしく甲斐源氏は滅亡。
その一部始終を目撃した理慶尼が記した武田滅亡記は
大善寺に大切に保管されている。






稚児堂






国宝 大善寺本堂(薬師堂)
関東で最古の木造建造物。
平清盛や源頼朝、北条貞時の寄進や修復、
武田信春の厨子寄進など、古い歴史と共に歩んできた。
中には右手にぶどうを持った薬師如来像や日光・月光菩薩
干支の順に並んだ十二神将立像などがあって、みどころ十分だ。



    

左:上から眺めた勝沼市街。
右:江戸時代初期の手法で築かれた大善寺の庭園。
 


   

左:お寺のぶどう畑。大善寺は「史蹟民宿」も経営していて
住職自らワインを醸造している。
さすがぶどう発祥の地とあって、上品ですっきりした飲み心地だ。
赤か白か迷った末に、赤を選んだ。
試飲用は少しでいいと断ったのに、住職がグラスに多めに注いでくれた。
昼間の暑い最中のお酒は、ちょっときつい(-_-;)
お腹こわしてるし。
中:武田滅亡記を記した理慶尼の墓。
理慶尼は勝沼氏の娘で、名を松葉といった。
右:北条家の墓。
どの北条かはわからないが、家紋はミツウロコなので
鎌倉北条か小田原北条にゆかりがあるのだろう。




    

大善寺を出て、国道20号線を左方向に歩いていった。
右:橋を渡り終えた交差点の左手に何やら…。
 





あった、ちょっとずんぐりむっくりした「近藤勇之像」!






イサミちゃんが無念にも敗退した、この勝沼・柏尾古戦場跡に
いつか行きたいと思っていたが、ついにやって来たぞ。
実はこの像の元に来たとき、風雨で色落ちした誠の隊旗が
イサミちゃんの顔にぴたっと張り付き、呼吸困難状態になっていたのだ。あはは。
で、旗の方向を一生懸命直して、ようやく顔が見えるようになった。
よかったね(*'ー'*)



    

台座に刻まれていた説明文
柏尾の古戦場
明治元年(1868)3月6日、近藤勇率いるかつての新選組、会津潘兵から
成る幕府軍甲陽鎮撫隊と因幡、土佐、高遠潘兵からなる官軍がこの地で戦った。
甲府城占拠を目指す幕府軍は先に甲府入城を果たした官軍を迎え撃つため、
勝沼宿に2カ所の柵門、柏尾の深沢左岸東神願に砲台を設け備えたが、甲州街道、
岩崎方面、菱山越の三手に別れ、攻撃を加えた官軍の前に敗れ敢え無く敗走した。
この戦いは、甲州に於ける戊辰戦争唯一の戦いであり、甲州人に江戸幕府の崩壊を伝えた。
町内にはこの戦いで戦死した三人の墓が残されており、このほかに両軍が使用した砲弾が
3個伝えられている。】
 


 

近藤勇の写真。
いかつい表情で写っているので、今に至るまで
近藤勇=怖い顔をした酷薄な男のイメージが定着してしまった。
だが実際の近藤の素顔は、いつもにこにこしている情に厚い男で
子どもたちの人気も高く、笑うと両頬にえくぼができたという。







近藤像のある周辺風景。




    

左:柏尾戦争を伝える資料
柏尾戦争を描いた錦絵(山梨県立博物館蔵)
右:柏尾の戦い
【慶応4年(1868)3月5日、江戸より大久保剛(近藤勇)率いる幕府軍は、
柏尾橋の東詰、鳥居の前に本陣を据え、大砲を二門据えつけ、宿内二箇所に通りを
遮る柵門を設け、日川左岸の岩崎山に日野の春日隊を配した。
夜にはいたる所で篝火がたかれ、柵の警備に宿の人もかりだされていた。
3月5日に甲府城に入城した板垣退助率いる官軍は、6日甲州街道を因幡藩、諏訪藩、
土佐藩の本隊が進軍し、途中岩崎方面に土佐藩隊、菱山から柏尾山を越える因幡藩隊の
3手に分け柏尾に迫った。
3月6日午後、最初の銃声は、等々力村と勝沼宿の境に造られた柵門の所で起った。
幕府軍二人をねらって官軍が撃った銃弾は、宿人足の宇兵衛を即死させてしまった。
柵を破り進軍する官軍は、通りから家の裏まで見通しがきくよう、宿の家々に建具を
すべて外させ、家の者は裏の物陰に隠れ動かないように命令した。
このとき通りに飛び出してしまった女性が一人撃たれてしまったという。
宿通りを進軍する官軍に対し、幕府軍は次第に後退し、柏尾の茶屋に火を放ち、
柏尾橋を焼き、橋から鳥居までの坂道に木を切り倒し、官軍の進撃路を防いだ。
官軍は、五所大神の南のダイホウインの台地に大砲を据え、深沢の渓谷を挟んで、
撃ち合いが行われた。岩崎方面では白兵戦が行われ、一進一退を繰り返していたが、
官軍の3手目の因幡藩隊が山越えに成功し、深沢川の上流から幕府軍の本陣に攻め
入ったため、総崩れとなり、甲州街道を江戸に向かい敗走し、1時間ほどで
官軍の勝利に終わった。】
 


    

左:柏尾坂の馬頭観音
明治36年(1903)に中央本線が開通するまで、甲州街道の物流を
担っていたのは馬だった。しかし街道は難所が多く、ここで息絶える
馬もいたので、供養のため馬頭観音が数多く建立されたという。
調布にあった近藤の生家・宮川家も多摩地方の馬に関係のある仕事を
請け負っていたのではないかとされているので、不思議な縁を感じる。
右:大善寺のそばにあった「北條ぶどう園」。
これも近藤・土方はじめ多摩の人々に縁の深い小田原北条氏つながりと
いうことで、このぶどう園でぶどうを買うことにした。
 





見事なぶどう畑。
好きなぶどうを自由に採っていいと言われた。
もぎたてのぶどうは、実がしっかりしていてジューシーで
ほんとにうまっ!
ということで、イサミちゃんつながりの勝沼の旅に大満足しつつ
次の目的地、猿橋に向かった。





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