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激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 幕末の下田を行く ~その3 下田ロープウェイ、初代米国総領事館・玉泉寺~
2012年01月26日 (木) | 編集 |

■雪の日の下田の旅。
今度は海とは逆に、山の方へ行ってみた。




下田ロープウェイで寝姿山へ









土産物売り場に混じって、ロープウェイの駅がある。
天気が悪いので、さすがに乗客は少なかった。






こんなかんじのロープウェイ。「ねすがた」号。
往復1000円。






ロープウェイの中から見た下田の町。
背後の山並みの起伏がすごい。




  

左:あっという間に寝姿山山頂駅へ到着。
島田市内から山を見ると、ちょうど女性が仰向けに横たわって
見えることから、「寝姿山」と呼ばれるようになったとか。
右:寝姿山遊歩道マップ。
山頂には展望台がちょろっとあるだけだろうと想像していたので
意外な広さにびっくり。
 






寝姿展望台。これは絶景だ。
下田湾、そしてはるか先に伊豆七島の島影が見える。



  

左:展望台からの景色の説明板。
右:黒船展望台の錨のオブジェ。
台北まで1991キロ、富士山まで67.3キロ
ニューヨークまで10988キロと記されている。
 



  

左:山腹のあちこちに、お花畑やハーブ園が作られている。
白や黄色の水仙の花がきれいだった。
右:ど根性楠(くすのき)「石割楠」。
どこにでも、ど根性植物があるようで。
一番根性がないのは人間かもしれない。
 






縁結び・愛染明王堂の絵馬。
ハート型をしている。






愛染明王堂
伊豆急行建設に関係した小泉、五島両氏が信仰していた愛染明王像を
安置するため、伊豆急行によって昭和49年に建立されたお堂。
愛染明王像は鎌倉時代の運慶によって作られ、元は鎌倉八幡宮境内の
愛染堂のご本尊だった。



    

お堂の周囲にある「寝姿地蔵」。
これら150余体のお地蔵様は平安時代の作といわれ
京洛や高野の古蹟から集められたものだそうだ。



    

復元された幕末の黒船見張り所。
「下田は古くから江戸(東京)―大阪間の海路の要所にあたり、
海の関所ともいうべき舟番所(下田湾大浦)が置かれ国内船の検問を
行ったところですが、たまたま嘉永2年4月12日(1849年)
英国測量船マリナ号の入港を機に幕府は急いでこの寝姿山山頂に
見張所を設け下田奉行所より数名の役人を派遣し、日夜黒船の警戒に
当たらせたのであります。
この見張所は当時の面影を忍ぶため復元したもので、又この側の台上に
ある大砲はその頃米国船に搭載してあったものです。」

思いのほか山頂が広くて見所もいっぱいだったため、下りのロープウェイに
乗り遅れないよう、最後は走って駅に向かった。ふうふう






初代米国総領事館・玉泉寺








幕末の下田の旅。最後は、ここ玉泉寺。
山門下の左側には「安政年間 日本最初 米国領事館」の石碑が。






そして右側には「露艦ヂアナ号水兵墓所」の石碑。
ここはロシア、米国そして日本の外交交渉の原点の場でもあるのだ。



    

嘉永7年(1854)、ここ玉泉寺は了仙寺と共に米人休息所および埋葬所
に指定された。その2年後の安政3年(1856)、タウンゼント・ハリスが
下田に来航。日本最初の米国総領事館が玉泉寺に開設され、庭に星条旗が翻った。
ハリスはオランダ人通訳ヒュースケンと召使いの中国人と共にここに住んだ。

またペリー来航の半年後にロシアの海軍中将プチャーチンが長崎に来航、
同年12月にディアナ号で下田に来航した。ペリーら米国人は日本を
半未開な野蛮国と見なし、力ずくで開国を迫る「砲艦外交」を展開したのに対し、
ロシアは終始、平和的かつ紳士的な態度で交渉に当たった。
ところが日露和親条約の第1回交渉後、安政の大地震が起こり、下田は大津波に
襲われて、下田港に停泊中のディアナ号も大破した。
ディアナ号の乗組員やプチャーチンは津波に流される日本人たちを救い、日本人は
沈没したディアナ号の代わりに伊豆半島の戸田(へだ)で、日本初の洋船ヘダ号を
建造した。しかしながら日本史ではこうしたロシア版黒船と日本の関係は隅に
追いやられ、黒船や開国といえばペリーとイコールのように記憶されてしまっている。

右:玉泉寺の右奥にはディアナ号乗員の墓がある。






玉泉寺本堂
曹洞宗瑞龍山玉泉寺は420年の歴史を持つ古刹だ。



    

左:絵葉書の玉泉寺。
右:手塚治虫『陽だまりの樹』より。
ハリスと通訳のヒュースケン、玉泉寺が描かれている。
大河ドラマ『新選組!』でもヒュースケンと攘夷運動の浪士たち
とのエピソードが丁寧に描かれていた。
しかし一般的には「唐人お吉」とのからみの中でハリスが語られる
ことが多く、ハリスやヒュースケンの功績はあまり知られていない。






「米国総領事旗掲揚之地」






記念碑ならびに月桂樹植樹者に、渋沢榮一の名がある。



   

左:ここにも1979年のカーター大統領訪問記念碑が建っている。
中:右側にあるのが牛王如来。
右:如来の隣の木は「屠牛木」。
「日本最初の屠殺場の跡
当時、領事館員の食料のため仏手柑樹の幹に牛を繋ぎ屠殺せるもの、
昭和6年4月8日東京牛肉商の手により牛王如来を建立し供養す。
樹は枯れたためハリス記念館に保存す。
後世村人は屠牛木と云う。」






「牛乳の碑」
安政5年、江戸から戻ったハリスは重病になり、回復時に牛乳を欲しがった。
奉行所は手を尽くして、近隣の村々から牛乳を集めた。
当時の日本は牛乳を飲む習慣がなかったので、農耕用の牛から搾ったもの。
調達するには多額の費用がかかった。






ハリス記念館
時間が遅かったので、残念ながらもう閉まっていた。
ここで最後のスタンプを押すことができず、駅前の観光協会で押した。
この奥にロシア・ディアナ号船員のお墓がある。
「ハリスも飲んだ伊豆の牛乳」の看板が(^^;




    

左:ロシア人のお墓は、戸田で死亡したディアナ号仕官ポショーチン
安政の大津波でディアナ号の大砲の下敷きになった水兵ソボレフ
戸田で死亡した水兵バケーエフの3人のもの。
右:絵葉書のディアナ号、プチャーチン、日露交渉を行った勘定奉行の
川路聖謨(かわじとしあきら)。現在に至るまで、意外なことに幕末の
徳川幕府の役人たちの外交手腕が最も有能であったという。




   

左:本堂の横にあった「ストーブの煙突を出した石」。
ハリスが使ったストーブの煙突の穴。
中:その下に掲げられたハリス日記の一部。
1856年(安政3年)10月4日の日記。
午前8時に地震があって家が震動したこと、ストーブを据え付けたが
不良品で部屋の中が煙だらけになったこと、おいしいイノシシの肉を
食べたことなどが記されている。
右:煙突穴わきのウェルカム・カーターの看板。






本堂の左側に「ペルリ艦隊乗組将兵の墓」の石碑が。






「鎮魂  米国海軍を代表し、ここに眠るペリー提督指揮艦隊
乗員の霊に捧ぐ  1987年5月16日
米国海軍横須賀基地司令官 海軍大佐 S・H・ハウエル」










英文が刻まれたお墓。





■以上、計画を立てずにでかけたので、日露和親条約を締結した
長楽寺をはじめ、回るべき史跡をいくつも見逃してしまった
機会があったら、次回はちゃんと調べてから来なくちゃね。
また4月からBS時代劇で『陽だまりの樹』の実写版が放送されるそうで
ハリスやヒュースケンがどう描かれるのかも興味深い。






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