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 戦国武将・小田原北条氏の足跡をたずねて ~小田原市郷土文化館・小田原城天守閣~
2011年09月30日 (金) | 編集 |

■ふう。ようやく月末になって史跡めぐりもひと段落つくことになる。
思えば今月は、わりと近場だが、多摩や箱根、小田原といろいろ巡ったものだ。
これらを基礎編として、次からは歴史に秘められた謎について、もう少しずつ
くわしく解き明かしていってみたい。

今回は9月8日に湯河原の五郎神社をたずね、その後に再び行った小田原城の記録など。





またまた小田原へ





9月になっても真夏日の、暑く日差しがきつい一日。
ここは小田原城への入り口。「藤棚」という変わった地名だ。







地名の由来である大きな藤棚「御感(ぎょかん)の藤」。
小田原市の天然記念物指定・かながわの名木100選のひとつ。
小田原城二の丸で鉢植えされていた藩主・大久保公の藤で
大正天皇がまだ皇太子のときに、お召し馬が藤棚に駆け込んで
花を散らしてしまった。それを見た皇太子が「見事な花に心なきことよ」
と感嘆したことから「御感の藤」と呼ばれるようになったとか。
樹齢約200年。毎年5月にはみごとな花を咲かせる。




    

お堀のスイレン。
スイレンの他にも、菱(ヒシ)や2千年前に千葉県で発見された
大賀ハスもたくさん生えている。
 





小田原市郷土文化館





ここが小田原市郷土文化館。







文化館前のクスノキの大木と木馬のシュールな風景。




    

左:文化館の入り口で、北条氏が使用した朱印を記念に押す。
多摩の日野が新選組のふるさとなのと同様に
ここ小田原は北条氏のふるさとなのだ。
右:朱印は通称「虎の印判」といわれる。
この印判は北条二代・氏綱によって創始され
村々の百姓から税を徴収する場合、家臣や寺社に領地を与えるなど
する場合、または裁判の判決文など様々な公文書に、代々使用された。
 



  

廊下の壁に貼ってある図。
左:後北条氏の関東攻略と戦国末期の北関東の情勢図。
右:治承4年(1180年)源頼朝挙兵頃の豪族の動向。
 
 






頼朝時代の豪族動向図の一部拡大。
この頃の北条氏は、あの尼将軍・北条政子で有名な元祖北条氏。
紛らわしいなあ(^^;
緑の○で囲んだ豪族・土肥実平というのは…。







はい、この人。
湯河原駅前に銅像がある、土肥(湯河原の古名)の豪族。
源氏の武将で、伊豆で挙兵した頼朝が石橋山の合戦で破れて
湯河原の山中に逃げ隠れた時、土肥実平が敵から守ったと
『源平盛衰記』に記されている。
そのさい、賢い夫人が大活躍したと伝わっている。
ちなみに私の夫の先祖は、この実平の家臣だったそうだ。




   

さてこちらの史料は、元祖の鎌倉北条ではなくて後北条(小田原北条)のもの。
左:北条早雲の肖像画。
中:小田原北条時代の出土品の食器類。
右:秀吉の石垣山一夜城で使われた平瓦(天正19年)。







江戸中期の宿場の旅費。
<本陣・脇本陣(大名・公卿など高貴の人の旅館)>
宿泊料は「泊り代」「座敷代」「心付け」の3種類ある。
大名は全部を現金で支払うが、公卿は「心付け」は自筆の色紙・短冊・
白扇などを用いた。本陣・脇本陣は幕府規定の賃金がないので
支払い具合に差がある。
<旅籠屋(一般人の宿泊する旅館)>
主人一人35文、馬一匹35文、従僕一人17文。
(江戸時代中期の幕府制定賃金)

どれも幕府が代金をきちんと決めていたというのがスゴイ。
日野宿本陣も、こんな具合だったんだろうな。







幕末の小田原宿。本陣・脇本陣の表示もある。
日野宿と比較すると面白い。







幕末の小田原宿の古写真。
撮影者はベアト。
道がけっこう広々としている。
蛍光灯の光が写ってしまった







明治初期の小田原宿の古写真。
1871年に小田原の居留地で発行された英字新聞に掲載された写真。
撮影者はモーゼル。
立っている男性の向こう側の建物が脇本陣虎屋三四郎の店。





   

左:飛脚御用鑑札
飛脚は大名行列よりも優先して走れるので
遠くからでもわかるように、棒の先にこの鑑札をつけていた。
左にあるのは、野宿用の飛脚枕。
中:武士の関所通行手形(右)と町人の通行手形(右)。
右:訴状箱(目安箱)。
江戸幕府では、将軍徳川吉宗によって評定所の門前に目安箱が置かれ
藩によっては、幕府にならってこうした箱を設置した。
小田原藩は、藩主忠真の時代に御用所の前に設置された。
ただし忠真の死後に廃止。













   

ちょっと昔の日本のレトロな品々。
右:西武百貨店が出したツチノコの手配書(^-^;




   

小田原周辺に出没する動物の剥製。
左からニッポンアナグマ、ハクビシン、タヌキ。
うちの庭にも出没してるし。




    

左:左側が遊園地と天守閣。
右:城址公園の中にあるこども遊園地。
昔からずっと50円や80円で楽しめる。
 






小田原城天守閣





天守閣入り口。
内部は甲冑・刀剣・古文書などの資料館になっている。
大人400円。内部は撮影禁止。
北条五代のわかりやすい図もあった。

「小田原の刀工」の説明にこんなことが書いてあった。
室町時代中期までの相州刀は鎌倉が中心だったが、後北条氏によって
城下町小田原は政治・軍事・産業・芸能など各種文化が花開いた。
また武具・刀剣の小田原鍛冶も隆盛をきわめた。
その小田原鍛冶は地方へも影響を与え、山本周重、康重兄弟が八王子に
入って武州下原鍛冶を起こした…と。
戦国時代もこのように、小田原と多摩は深い関係を築いていたのだ。







天守閣の展望台から下を見たところ。

小田原城は15世紀中頃の大森氏によって築城されたことになっているが
湯河原の郷土史では、頼朝を助けた土肥氏がその武勲によって
早川荘総地頭に命じられ、小田原城を築城したと記されている。
室町時代になると、湯河原は土肥氏に代わって大森氏の支配になり
さらにその後、大森氏を討伐した小田原北条氏の支配下に入ることになる。







こちらが石垣山一夜城の方向。




   

左:真鶴・伊豆半島方面。湯河原もね。
中:三浦半島方面。
右:箱根方面。






箱根方面になにやら白煙が。
これは大涌谷の噴煙。
こんなに出てて大丈夫なの? こわっ。







報徳二宮神社


   

小田原城に隣接している「報徳二宮神社」。




   

二宮金次郎像で知られる二宮尊徳を祀った神社だ。

<二宮金次郎像  昭和3年、昭和天皇の即位御大礼記念として
神戸の中村直吉氏が寄進したもので、製作者は三代目慶寺円長。
材質はブロンズ。その後これと同じ像は全国の小学校などに向けて
約一千体製作されたが、戦時中すべて供出に遭い、現在残っているのは
この一体だけである。なおこの像は当時のメートル法普及の意図を
反映して、丁度一メートルの高さに製作されている。>

右:湯河原の街中に建っている金次郎像。




    

二宮尊徳翁の像。おじいさんになった金次郎だ(^^;;







経済なき道徳は戯言であり
道徳なき経済は犯罪である。

二宮尊徳…江戸時代後期の農政家・思想家。
多くの農村の指導に当たった。

金次郎の質素倹約の道徳観が、昭和初期の軍部に利用され歪曲化されて
国民統制に使われたのは不幸なことだった。







神社内の植え込みで見つけたヤマカガシ。
毒ヘビだ。









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