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激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 戦国武将・小田原北条氏の足跡をたずねて ~箱根 早雲寺・正眼寺~
2011年09月29日 (木) | 編集 |

■まだまだ続く北条氏探訪(*^^*)
迫り来る台風15号を感じながら湯河原の瑞応寺をたずねた今月20日。
そのあとすぐに、今度は一路、箱根湯本を目指したのだった。





いざ箱根へ





ここは以前訪れた、小田原城から3キロのところにある
秀吉が築城した石垣山一夜城への入り口。
この前を通り越して…。







目指すは、箱根の早雲寺。




  

左:箱根湯本通り商店街。
右:滝通り温泉郷。
由緒ありそうな古い旅館が建ち並んでいる。
 
 





ここが早雲寺!





早雲寺惣門に到着。
この近くへは何度も来たことがあるが
肝心の早雲寺を訪れるのは今回が初めてだ。






惣門をくぐると白壁が長く続いている。






早雲寺(早雲禅寺)中門。
門には「臨済宗大徳寺派別格地」と書かれている。
早雲寺は京都北区紫野にある大徳寺の末寺で
大永元年(1521年)、父・北条早雲の遺命によって
息子の北条二代・氏綱が建立した。

早雲寺の門をくぐったあたりから、急に雨が降り出した




    

門を入って右側に鐘楼がある。
「県指定重要文化財 梵鐘」
元徳2年(1330年)鋳造、豊太閤
天正18年小田原攻めの時石垣山一夜城で
使用したものです。とある。 
 





本堂。
小田原攻めのさい、秀吉はここ北条家の菩提寺である
早雲寺を奪って本陣を敷いたのだ。
土方家の菩提寺である多摩の高幡不動尊を
官軍に占拠されるようなものだな。ふ~む。
さぞや力を落としたことだろう。






本堂の裏手の「史跡庭園 北条幻庵作 枯山水香炉峯」。
幻庵は早雲の三男で、長きにわたって北条家を裏から支えた人物である。






本堂の左側にある石碑。



   

左:「遊撃隊戦死士墓」。
花が手向けられている。
遊撃隊は幕末の戊辰戦争の時の幕府軍のこと。
「箱根戦争」で官軍に敗れた遊撃隊の人見勝太郎が建てたもの。
人見はその後、榎本、土方らと共に蝦夷へ渡って箱館戦争を戦った。
人見と一緒に箱根で戦った伊庭八郎も、蝦夷の箱館戦争で戦死。
その遺骸は、箱館五稜郭の土方歳三の墓のすぐそばに埋葬されたという。
中:戊辰戦争の事跡を記した顕彰碑。
右:「明治戊辰之難幕府遊撃隊士等…」と書かれている。

ちなみに大政奉還後に王政復古が発せられて
京都見廻組は新遊撃隊と名前を変え、
新選組も新遊撃隊御雇(おやとい)と改称するようにと命じられたが、
隊士たちの猛反対で、そのまま新選組と名乗り続けたという逸話がある。
そりゃ嫌だよね、見廻組に雇われた遊撃隊なんて屈辱的な名前なんか。




    

左:墓地。奥に北条家五代の墓所と連歌師・宗祇の墓碑がある。
右:徳川二代将軍・秀忠公の侍医の墓。
秀忠といえば、いま放送中の大河ドラマ『江』の夫ではないか(^^;
 





この階段を上った先に北条家の墓所がある。
と、ここでいきなりの大雨 
もうバケツをひっくりかえしたようなものすごい降り方だ。
ううう、北条のいぢわるっ。






豪雨に逆らいながら階段を上っていったが
雨と暗さで、何がなんだかわからない 
確かにお墓は5つあったけど…。

これらの墓は、小田原北条氏滅亡の82年後の寛文12年(1672年)
狭山北条家5代・氏治によって建てられた。
右から北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の墓。
秀吉に小田原城を陥落された氏政は、弟・氏照と共に切腹し
その墓は小田原駅のそばにある。
したがってこれらの墓は供養墓ということになる。

どしゃ降りの雨でこれ以上長居はできないので、早々に退散することにした。
宗祇のお墓もちらっと見えたが、パス。


と、早雲寺の門を出たとたんに、ぴたりと雨がやんだ。
げげっ!? 北条の呪いか!?
そーいえば、金山彦神を祀っている湯河原・鍛冶屋の金山堂の
内部写真を写したときも、なかなかフラッシュがたけず
半分は暗くも明るくもない妙にボワッとした変な写真になって
薄気味悪い思いをしたっけ。
とはいえオカルト現象のたぐいはあまり信じない私なので
今回も単なる偶然ということにしておこう(^-^;






正眼寺へも行ってみた





気を取り直して、住職が早雲寺と姻戚関係があって早雲研究をしているという
正眼寺(しょうがんじ)へも行ってみることにした。



    

左:雨上がりの箱根湯本の風景。「はつ花そば」の看板が見える。
右:途中で、駐車場の裏手に古びた鳥居を発見。
ライトブルーの車の後ろ側。
 


    

左:看板に「厄除石垣神社由来」と書いてある。
最近(昭和60年)この社の事跡を調べたところ、天正18年の小田原攻めのさい
秀吉が大軍をもって石垣山に一夜城を築き、早雲寺に本陣を置いたが
そこは鬼門となるため、この石垣神社を新設した。
誰が建てたかは不明だが、当時の名工が作ったと伝えられる
木製の天狗の面一対を現在社宝としている。
また古来から厄除け神社とされてきた伝説のとおり、仲宿に大きな災害は
起きていない…云々と、文字が薄くなってよく読み取れないが
こんなふうに記されてる。

右:上の方までずっと登っていったが、肝心の神社が見当たらない。
ここかなと思われる跡はあったが…。
 





その石垣神社のすぐ隣りに正眼寺があった。
早雲寺からは、徒歩で約8~10分のところだ。






本堂。ここも鎌倉時代に建立された、京都大徳寺派の禅寺。
狩野派の襖絵などが残されている。



    

左:苔むしていてよくわからないが、これが芭蕉の句碑かな?
右:奥の階段を昇っていくと…。
さっきの石垣神社に通じる道もあった。
江戸時代までは、神(神社)と仏(寺院)は
一緒の場所に祀られるのが普通だったからね。
ある意味、おおらかな時代だったと思う。
 





曽我堂。






健久4年(1193年)、見事父親の仇討ちの本懐をとげた
曽我五郎十郎兄弟の菩提供養のために建てられたお堂。
箱根神社にも曽我兄弟を祀った社があった。
元祖「歴女」としては曽我兄弟の仇討ちの話は当然知っているが
中学や高校時代に読んだきりなので、詳しい内容は忘れてしまった(;^_^A
ほんとのことを言うと、日本史ってけっこう苦手
世界史は好きだけどね。



    

明治元年に曽我堂は火事で消失。
その後、大正3年(1914年)に松竹歌舞伎の関係者によって再建された。
中村、市川、尾上など歌舞伎役者の名前がある。
 



    

左:湯本方面へ戻る途中にあった銭湯。
右:古い家並みのところどころに、こうした石塚が置かれている。
 






小田原の造幣局の近くにも「はつ花そば」(自然薯入りの蕎麦)があるので
行ってみたら、火曜日はちょうど定休日だった。残念。
そこで、すぐ近くの大衆食堂的な蕎麦処に入った。
揚げナスのおろしそば 650円。
揚げたゴーやも入っている。デザートはナシ一切れ。
意外な美味しさに満足。
ご馳走さまでした(^o^)






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