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激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 幕末の下田を行く ~その2 了仙寺・下田城址・ペリー艦隊上陸記念碑~
2012年01月25日 (水) | 編集 |

■伊豆半島・下田の旅。
下田開国博物館を出て、すぐ近くの了仙寺へ行った。




日米下田条約調印の場・了仙寺




山門






法順山 了仙寺(日蓮宗)
寛永12年(1635)創建

第二代下田奉行今村伝四郎正長が開基大檀那として創建。
初代奉行父彦兵衛重長の跡を継いだ伝四郎は、江戸への
上り下りの廻船の検問を行った御番所の整備、検問の補助に
あたった廻船問屋の創設、下田の街を波浪から守った武ヶ浜
波除の築造等下田繁栄の基礎を築いた名奉行として知られる。

嘉永7年(安政元年・1854)3月、神奈川県において日米和親条約が
締結されて下田が開港場となると、ペリー艦隊は次々と入港してきた。
ここ了仙寺は、上陸したペリー一行の応接所となり、同年5月に
日本側全権林大学頭等とペリーとの間に日米和親条約付録下田条約が
当寺において調印された。これにより、了仙寺は玉泉寺と共に
米人休息所となった。






本堂






「安政元年(1854) ペリー提督黒船陸戦隊調練の図」
黒船従軍画家ハイネ筆
調練終了後、ペリーと林大学頭全権との間で
日米下田条約が締結された。
図中の本堂は現存、庫裏鐘楼は安政の大津波によって消失した。

過去の津波はここまで押し寄せたのだ。



  

左:本堂手前の大きなシャコ貝。
昼食を食べた「昇龍」の店内にもシャコ貝が飾ってあった。
右:了仙寺宝物館。ここの前で3つ目のスタンプを押した。
宝物館には、日本最大の3000点以上の黒船・開国資料が
あるが、団体客が入館したばかりなのでパス(^^;
 
 


  

了仙寺の裏山にある「了仙寺横穴遺跡」。
「この洞窟は、今から約1300~1400年程前、
古墳時代に墓として利用されていたと考えられており、
洞窟内より人骨とともに勾玉や水晶製の切子玉等の玉類、
金銅製の腕輪や耳飾等の装身具、土師器、須惠器が出土しました。」
 
 




下田城址と開国記念碑(下田公園)


    

次に、下田湾沿いの下田公園へ行った。
右は案内図。
 


    

左:坂道を登っていく途中にあったのが「カーター記念碑」。
「ここ下田で日米両国民の友情が初めて根をおろし花開いた。」
云々と記されている。 1979年 ジミー・カーター元米大統領。
右:開国記念広場。
「日米修好の基礎は下田に於いて築かれた
1960年 5月18日」
 





開国記念広場の開国記念碑。
「嘉永7年(安政元年 1854)日米和親条約の締結により、日本最初の
開港場となったここ下田に、ペリー艦隊が入港し、同3年には米国総領事
ハリスが着任し、日米友好の礎が築かれた。昭和28年(1953)に
開港百年を記念して、開国記念碑が建てられた。この記念碑にはペリーと
ハリスのレリーフ像と二人の言葉が刻まれている。
『余は平和の使節として此の地に来れり』(ペリー)
『私の使命はあらゆる点で友好的なものであった』(ハリス)
ペリーの言葉を選んだのは戦後アメリカの連合軍最高司令官だった
マッカーサー元帥、ハリスの言葉はウィリアム・J・シーボルト。
『開国記念の碑』の揮毫は、戦後の日米時代を切り開いた吉田茂総理。
碑の設計と、ペリー、ハリスのレリーフの製作者は、日展審査員をつとめた
西伊豆町仁科の彫刻家、堤達男氏である。」

…と、たぶんに政治的な匂いが立ち込める広場なのであった。






眼下に広がる下田の町並みと港。
空気があまりに冷たいので、坂道を登ると息苦しい。



    

左:バクチノキ(博打の木)だって(^o^)
「奥に見える赤い幹が特徴的な樹木は、唐突に樹皮が剥がれることから、
突然に金を失うことにからめて「バクチノキ=博打の木」といわれる。
江戸時代には博徒の信仰樹となり、この樹の下で終日博打を打っていた
とも伝えられる。暖かい地方の樹の関東では珍しく、伊豆と房総半島にある。
八丈島では樹皮から黄色の染料をとる。
国内には、この木を含め3本ほど確認されている。」

右:おっ、この木か。
しかし終日博打を打ったらいかんよ、ね。
 


    

左:鵜島城址。下田城のことだ。この上が天守台跡になっている。
右:「下田城(鵜島城)は天正16年(1588)、後北条氏(小田原北条氏のこと)
南伊豆防衛の拠点として築城した山城で、水軍基地でもあった。
下田湾に突き出たほぼ円形(直径800m)の半島上にあり、
最高点は海抜70mである。複雑な地形を利用した空堀などがあり
北、西、南の三方は海に面した断崖になっている頑固な守りであった。
天正18年(1590)3月、秀吉の小田原攻めにより、城主清水康英は
わずか600の城兵で、押し寄せた豊臣の水軍1万4000と戦い、
50日籠城したが、4月下旬ついに降伏した。」

ったく秀吉には、毎回毎回腹が立つわ
 









上に登ってみた。
ここらへんに天守台があったのだろうか。
下に転げ落ちそうだ



    

下る途中にあった「幸福稲荷」。
幸福稲荷は、元は金花(きんか)稲荷と呼ばれていて、
天保14年(1843)に下田奉行・土岐丹波守に再建
されてから幸福稲荷と呼ばれるようになったという。
土岐丹波守はハリスと交渉した日本側代表の一人。
なお土岐丹波守は、安政の東海地震と津波による
犠牲者の霊を弔う市内稲田寺(とうでんじ)の「つなみ塚」の
建立者の一人
でもある。






商業写真の開祖・下岡蓮杖の碑とペリー上陸の碑


    

下岡蓮杖(1823~1914)
少年時代に狩野派の絵を学び、江戸の薩摩藩屋敷で見た
銀板写真の精巧さに驚いて、写真師を志すようになった。
安政3年(1853)、ハリスの通訳・ヒュースケンから
写真の手ほどきを受け、その後横浜で写真術を習得。
幕末の江戸城を写したり、優れた写真を多く残した。






下田に上陸したペリー艦隊一行は、了仙寺までの700メートルを
行進した。現在はこの通りを「ペリーロード」と呼んでいる。
平滑川に沿って桜並木が続き、古民家や蔵を利用した
おしゃれな店がならんでいる。






川のほとりに、無造作に大砲!
1829年製 30ポンドカロネード。






橋の上にこんな絵が描かれたタイルがはめ込まれている。






ペリー上陸の碑



    

左:「嘉永7年(安政元年 1854)再来したペリーと幕府の間でもたれた
日米和親条約の交渉過程で、開港地として下田港が提示されると、ペリーは
調査船を派遣した。下田港が外洋と接近していて安全に容易に近づけること、
船の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満たしている点に
ペリーは満足した。条約締結により即時開港になった下田に、ペリー艦隊が
次々と入港した。そして、ペリー艦隊の乗組員が上陸したのが、下田公園下の
鼻黒の地であった。ここを上陸記念の地として、『ペリー上陸の碑』が建てられた。
この記念碑のペリー像は、故村田徳次郎氏の作品であり、記念碑の前の錨は、
アメリカ海軍から寄贈されたものである。」

右:裏側。「日本最初の開港地」
ペリー来航ばかりが有名だが、ペリー艦隊が去った半年後に、ロシアの
プチャーチン提督もディアナ号でここへ来航した。

プチャーチンについては、以下の2010年1月20日のブログをどうぞ。
「日露友好の原点 西伊豆・沼津市戸田を訪ねて その2」
http://tekcat.blog21.fc2.com/blog-date-20100120.html






その拡大。「ペリー艦隊停泊図」






「日米開港150周年によせて
ジョージ・ブッシュ大統領から下田市へのメッセージ
2004年3月31日」
灯が燃えている。

米国による日本征服の第一歩の地というわけだ。






ペリー艦隊来航記念碑
ペリーの像と錨。






マンホールも黒船。







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