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激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 近藤勇の生家跡を行く ~その3 勇の墓所・龍源寺と調布空港~
2012年01月13日 (金) | 編集 |

宮川家の菩提寺・近藤勇の墓所 龍源寺





近藤勇の生家(宮川家)跡から歩いて5分のところに
宮川家の菩提寺・曹洞宗大沢山龍源寺がある。






山門を入ってすぐ左手に建つ近藤勇の胸像。
刀身も供えられている。






いかめしく、きりりとした表情のイサミちゃん。




   

胸像の横と後ろ側(^^;



    

左:「近藤勇百年祭胸像建之協賛御芳名」の碑
右:「近藤勇と天然理心流」の碑
この地に生まれた近藤勇は、鹿島神道流を修行した
近藤内蔵助長裕が創始した『天然理心流』の四代目を継いだ剣豪です。
その真髄は「誠の剣」であり「刀の剣」であるとも言われています。
古武道は日本人の心のふるさとであり貴重な歴史的文化遺産であります。
『天然理心流』の木刀5本の形と柄枠三組の演武のフィルムが
日本武道館の古武道協会に永久保存されています。
三鷹市剣道連盟では、近藤勇先生慰霊剣道大会を毎年開催しています。
昭和六十三年三月吉日
三鷹市剣道連盟 会長 石川金次

去年、NHKのBS時代劇で塚原卜伝(主演は大河『新選組!』で山南敬助を
演じた堺雅人)を放送していたが、この卜伝の鹿島神道流を継いだのが
天然理心流ということで、なかなか感慨深いものがある。






若い男性が、長々と祈りを捧げていた。






本堂の裏手すぐに近藤家の墓がある。
「東京都指定文化財 近藤勇の墓
種別 旧跡  
指定年月日 昭和11年(1936)3月4日 
所在地 三鷹市大沢6-3-11
天保5年(1834)武州多摩郡上石原村の宮川久次郎の三男として生まれ、
15歳で天然理心流近藤周助に入門、近藤家の養子となって
28歳で天然理心流四代目を襲名した。
文久3年(1863)土方歳三らと京都に上り、慶応3年(1867)
大政奉還までの4年間、新選組として活躍した。
京都、鳥羽伏見の戦いで敗れた後、甲陽鎮撫隊を組織し山梨県勝沼で
官軍を迎え撃つが、大敗して千葉県流山で投降する。
慶応4年(明治元年)4月25日、板橋宿で処刑された。享年35歳。
法名は貫天院殿純義誠忠大居士。
平成5年(1993)10月31日  三鷹市教育委員会」






墓所の左手にある辞世の句。
投降し捕縛された翌日の4月4日に詠んだ漢詩。

孤軍援絶えて俘囚となる
顧て君恩を念えば涙更に流る
一片の丹衷能く節に殉ず
雎陽千古是れ我がともがら
他に靡き今日復何をか言わんや
義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所
快く受けん電光三尺の剣
只まさに一死を将て君恩に報いん






向かって左側から、
この写真には写っていないが近藤久太郎・彦助の墓
近藤新吉の墓、近藤勇五郎の墓、近藤勇の墓(献花されている墓)
一番右は先祖代々の墓。
勇五郎の墓の横側には妻・タマ(勇の娘)の名が刻まれている。

近藤勇は明治元年(1868年)4月25日、板橋宿の刑場で処刑された。
斬首された首は板橋で3日間晒された後、焼酎漬けにして京へ運ばれ
三条河原でも3日間晒された。

京での晒し首を見た人々の間では、
「宮さん宮さん」のこんな替え歌が流行ったという。
「三条河原の下て群集するのハなんじやいな
トコトンヤレトンヤレナ
あれハ朝敵近藤勇の首しらナイカ
トコトンヤレトンヤレナ」

近藤の首の行方は謎になっているが、愛知県岡崎市の法蔵寺に
旧知の人によって葬られたという説もある。

処刑された近藤の胴体の埋葬場所についても諸説あって
その1つが、処刑を目撃した養子の近藤勇五郎と叔父の宮川弥七らが
3日後に刑場内の遺体を掘り起こして、ここ龍源寺へ改葬したという説。
他には、処刑された板橋の寿徳寺境外墓地に埋葬されたという説や
荒川区の上野彰義隊の墓地である円通寺埋葬説、会津埋葬説などがある。




   

左:近藤家の隣りに宮川家の分家の墓所がある。
この写真では切れてしまったが、一番左側は勇の従兄弟・宮川信吉の墓。
慶応元年に新選組に入隊し、天満屋事件で負傷して死亡した。
中:墓所の奥。
右:近藤家の墓所と本堂の間には竹やぶがある。
宮川豊治氏が母・富さんから聞いた話では、勇五郎が刑場で掘り返して
運んだ勇の遺体は、当時は刑死した者はちゃんと埋葬できないので
龍源寺の墓地の外側の、竹やぶの場所に横にして埋めたそうだ。








調布空港





勇の生家が取り壊される原因になった調布空港を見に行った。
生家や龍源寺からも、道路をはさんですぐ鼻の先に位置している。
これは管制塔。




    

左:小田急バスの停留場とタクシー乗り場。
三鷹駅や調布駅まで運行している。
右:東京都調布飛行場ターミナル。
庶民的なつくりだわあ(^^;
大島や新島・神津島の伊豆諸島へ
1日10往復の定期便を運行している。






柵越しに飛行場の中が見える。
戦時中、生家跡の隣りの現・野川公園には、軍事施設である中島飛行機
三鷹研究所があり、調布空港(当時は東京調布飛行場という名称だった)と
中島飛行機の間に位置する宮川家は、取り壊されざるを得ない運命のもとに
置かれたのだった。

調布市郷土博物館の資料より
<昭和20年頃の東京調布飛行場>
昭和14年(1939)当時の東京府が三鷹村・調布町・多磨村にまたがる
広大な土地を強制的に買上げ建設に着手した。昭和16年(1941)に
竣工し、以降、陸軍により拡張整備が繰り返され、関連施設は60万坪を
越える規模となった。航空部隊は本土爆撃をおこなう米軍機B29に体当たり
攻撃を展開した。「震天」特別攻撃隊や艦載機との戦闘など東京防空の要となった。
戦争末期には、特別攻撃の訓練を終えた「振武」特別攻撃隊が、沖縄周辺の
海上特攻のため飛び立った。昭和20年(1945)8月15日の敗戦により
連合国占領軍に接収され、アジア極東地域米軍基地で消費される野菜類を
栽培する『調布水耕農場』が建設された。




    

プロペラ機が見える。
発着の時には、ブーンというかなり大きな音が聞こえた。




   

以前『調布空港』という映画を観て、この空港自体に興味を持った。
人生の岐路に立って迷う3人の男女を描いたハートウォーミングな映画で
以下はその作品のシーン。
バス停とかそのままで、ちょっとなごむ(*^^)






上空から俯瞰した眺め。
滑走路の向こう側が生家跡や野川公園で、左端が味の素スタジアムだ。







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