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激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 近藤勇の生家跡を行く ~その1 調布市郷土博物館~
2012年01月11日 (水) | 編集 |

■遅いお正月休みの2日目。
去年は多摩での土方歳三の足跡をたどってみたので、今回は近藤勇の生誕地へ
行ってみることにした。
まず最初に近藤の生家・宮川家の模型が置かれている「調布市郷土博物館」へ。
次に「深大寺」→「生家跡」→「龍源寺」→「調布飛行場」。
その後、ついでに「江戸東京博物館」まで足を延ばしてみた。




調布市郷土博物館



    

左:新しくなった海老名サービスエリア。
おしゃれなショッピングモールみたいになっていてびっくり。
成城石井も出店していたので、サンドイッチやお菓子を買った。
右:懐かしい日野や町田の文字が。調布はこの先だ。






到着!
ここは郷土博物館の裏手。






郷土博物館正面。
京王多摩川駅下車・徒歩4分。
9時~16時、月曜日休館、入館無料。



    

左:庭の生け垣の中の「石人」像。
これは14世紀頃の朝鮮半島の文官をかたどった石人。
右:深大寺付近を流れていた大川に架けられていた石橋。
元文4年(1739年)の年号が刻まれている。
石は真鶴半島産の安山岩でできているそうだ。へえ~っ。






館内に入ったとたんに近藤勇の像が(^^;
写真を撮るには書類にその旨を記入する必要があって
ちょっと面倒。






思索するイサミちゃん。
司馬遼太郎の小説のせいで、お人よしでちょっと間抜けな
イメージがついてしまった近藤さんだが、近年は文武に優れ
卓越した政治手腕を発揮した事実が発掘されている。






調布は映画の街としても有名だ。
これは大映撮影所で使われていた機材。



    

2階の展示室にて。
左:「武士の時代と調布の中世」のパネル。
鎌倉時代の調布市域にも武士団である村山党や西党が形成された。
その後、関東は小田原北条氏の支配下となり
深大寺城など中世城郭が数多く築かれるが
秀吉の小田原城攻めによって戦国時代は終焉した。

右:渡辺崋山が描いた江戸時代の甲州街道 滝沢馬琴著『玄道方言』より
甲州街道を横切る用水にかかっている橋が、
下の絵図の字中溝(なかみぞ)の石橋です。
現在調布市の文化財に指定されている妙円地蔵に
お参りする人の姿が見えます。

庭にあった石橋だ。






展示室の中央に置かれた近藤勇の生家・宮川家の30分の1の模型。
約7000平方メートルもあった宮川家は、1943年(昭和18年)の
日本軍部による調布飛行場建設の際に、滑走路の離着陸の妨げになる
として取り壊されてしまった。

近藤勇は天保5年(1835年)に武蔵国多摩郡上石原宿(調布市)の
富農・宮川久次郎の三男として生まれた。幼名・勝五郎。
15歳で天然理心流の近藤周助に入門、翌年周助の養子となって
島崎勝太と改名。文久元年(1861年)に天然理心流四代目を襲名した。
近藤勇と名乗るのは、松井ツネと結婚した時である(1860年)。






表門と井戸。
この井戸は勇の産湯に使ったと伝えられている。
井戸の後にある農具入小屋は、宮川家の剣術道場として使われていた。






奥に見えるのは外便所。






主屋(母屋)。庭にニワトリがいる(^o^)
主屋の天井裏では養蚕が行われていた。






主屋を横から見たところ。
50坪ほどの広さだった。



   

主屋の脇には蔵屋敷、文庫蔵、乾燥納屋、地下蔵などの建物があった。






脇門から眺めたところ。
庭内には築山が築かれ、屋敷の周囲には欅(けやき)や樫、
桜の大木が植えられていた。






裏門から眺めたところ。
屋敷の裏手には竹林があった。






博物館の壁に架かっている生家の説明板。










取り壊される前の宮川家の古写真。
昭和18年1月に調布飛行場本部から呼び出しがあって
そこで家の解体を伝えられ、同年3月には壊された。
写真に写っている巨木も切り倒された。







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