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激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 戦国武将・小田原北条氏の足跡をたずねて ~石垣山一夜城 その1~
2011年09月06日 (火) | 編集 |

■ほ~んと久々に2日半の休みがとれたので、もう心身共にヘロヘロに
なりながら、まず本日は仕事を終えたお昼過ぎに、小田原目指して出発した。
6月にも小田原城へ行ったが、今回は豊臣秀吉が小田原攻めの際に築いた
石垣山一夜城を見に行くことにした。







熱海・湯河原方面からJR東海道線小田原駅へ行く1つ手前が早川駅。
ガードをくぐって関白農道に入り、うねうねした道を登っていくと…。
(地図は小田原市観光協会のもの。これ以下の地図も同じ)







ここが一夜城への登り口。




 

左:登り口の前に展示してある石。
中:説明書き
<石垣山一夜城の西側一帯の斜面には、江戸時代初期(寛永年間:1624~1644年)に
江戸城移築用の石垣を採取した石丁場(石切場の当時の言い方)があり、
「早川石丁場群」と呼んでいます。
平成17年度に実施された広域農道建設に伴う発掘調査では、
江戸時代の石切り作業の痕跡を示す石が多数確認されました。
この石には、石を割るときに刻まれた「矢穴」が見られ、
「八」や「寸(○の中に寸の字)」の刻印が刻まれています。
このような刻印は、石切りを幕府から請け負った大名もしくは石工の集団、
作業経過を示すマークであるなど諸説あります。> 
右・一夜城の地図。






わかりやすいようにこの地図を利用。






いざ、一夜城へ 



 

脇道は険しいが、登り用の道は整備されている。
吹き抜ける風が涼しい。
途中に一夜城の説明板がある。

以下は小田原市の解説より。
<石垣山一夜城歴史公園 石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていましたが、
天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、
その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。
この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、
山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、
一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き
志気を失ったためと言われています。
しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで
約80日間が費やされました。
秀吉は、この城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、
天皇の勅使を迎えたりしました。
この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、
石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、
長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、
今日まで当時の面影が大変よく残されています。
この地は国立公園区域および国指定史跡に指定されています。
公園面積 約5.8ha
富士箱根伊豆国立公園 昭和11年2月1日指定
国指定史跡石垣山 昭和34年5月13日指定>






二の丸 










いきなり目の前が開けた。
鮮やかな緑色が視野に飛び込む。






ここが一夜城の二の丸跡だ。




 

左:説明書き
<ここ二の丸(馬屋曲輪)は、本丸(本城曲輪)と並んで最も広い曲輪で、
中心部分、北へ長方形に張出した部分及び
東の腰曲輪部分、これらの三つの部分からなっています。
『新編相模国風土記稿』では二の丸として紹介されているが、
伝承によれば馬屋が置かれ、本丸寄りには「馬洗い場」と呼ばれた湧水もあったようです。
井戸曲輪に行く道の直ぐ横には「櫓台跡」が残っており、他の曲輪にも
「櫓台跡」が確認されています。>

中:櫓(やぐら)台跡。
右:標識。秀吉のひょうたんマークがついている。





展望台 






   

空の雄大な青さと雲の広がりがすばらしい。
右に丹沢山系、左に箱根が見渡せる。
正面下に、県立生命の星・地球博物館の建物が見える。
 




本丸 







 

左:本丸への登り口。強い日差しがまぶしい。
中:途中で、二の丸を振り返って見る。
右:本丸の端で三味線を弾く人あり。風雅じゃ。






本丸跡。
千利休や淀君も、ここで華やかな宴を催したのだろうか。






本丸から二の丸を望む。
周囲の山々もくっきりした姿を現している。






物見台から市街を眺める 







   

小田原城まで3キロ。
西国式の高い天守閣を持つ一夜城の姿を見て、
小田原城の東国武士たちはさぞや驚いたことだろう。
 





実際に眼下の景色を見てみると
あった! 小田原城だ(赤い○で囲んだ建物)。



 

左:豊臣軍団による北条・小田原城包囲網
陸から海からこうもびっちり包囲されたんじゃ
こりゃかないませんわ。秀吉のいぢわる
右:こんな祠(ほこら)も。
 





■ということで、その2へ続く。







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 戦国武将・小田原北条氏の足跡をたずねて ~石垣山一夜城 その2~
2011年09月06日 (火) | 編集 |

そして天守閣へ







    

左:最後の天守台跡へ登る。
右:天守台。標高261.5メートル。
本丸より4~6メートル高い。
 




実際の天守台は思ったより小さい。
奥の盛り上がった部分は木の切り株。
ここに張りぼての天守閣を作れば、遠目では立派な建物に見えるよね。



  

天守台の向こう側は、左右とも切り立った崖になっている。
 
 




再び本丸・二の丸まで下る。



    

二の丸から本丸を眺めたところ。
一夜城は東国で初めて作られた総石垣の城で
石積みは近江(現在の滋賀県)の穴太衆(あのおしゅう)という
石積み職人の手による野面積(のづらづみ)。
これは自然の石を加工せずに積み上げる手法のこと。
 




井戸曲輪をのぞく






    

谷の下へ降りる階段がついている。






井戸曲輪は城の北東側の沢の地形を利用して
石垣で囲むように作られている。



    

井戸は二の丸から25メートル下にある。
危ないから立ち入らないようにと書いてあるが…。






井戸からは、今もきれいな水がさらさらと湧き出ている。
「淀君化粧井戸」とか「さざゑの井戸」と呼ばれているそうだ。
サワガニがいた。
いきなりスズメバチが現れたので、いそいで退散






野面積の石垣。
端正な石積みの城を見慣れた目には、かなり荒っぽく感じられる。






しかしながら大地震にも耐え、400年前の姿を残しているのはスゴイ。





■まだ続くよ(^^;






 戦国武将・小田原北条氏の足跡をたずねて その3
2011年09月06日 (火) | 編集 |

■石垣山一夜城を後にして、次に、かねてより気になっていたお寺に向かった。




謎の蓮船寺は、やはり謎だった





それがここ、小田原七福神のひとつである蓮船寺である。
車がすれ違えないほどの細い山道を登ったところにある。



   

左・右:声をかけたが誰もいないらしい
ニワトリだけが走り回っている。
中:七福神の大黒天を祀っているお寺だ。



    

由来をみると、蓮船寺の開祖である井出氏は韮山城主の北条氏規の家臣だったそうだ。
また家康の側室となるお万の方も韮山江川家の養女となった経緯があり
お万の方の母親も井出氏の出身(または北条家の出身)ではないかといわれている。
もともと北条家は土方一族と関連があり、新選組を考える時に北条・韮山江川・土方の
つながりをも考慮する必要があるのではないだろうか。
加えて、蓮船寺と風魔一族との関係も知りたかったのだが
しかたがない、また次回ということで…。
あ~、疲れた
 






北条氏のモニュメントめぐりへ





謎解きができないまま帰るのも悔しいので
小田原駅周辺の像や墓所を見てまわることにした。
安易ですねえ(^^;






名前については「北条」と「北條」の2つで記されているが
これは「新選組」と「新撰組」の2つがあるのと同じことなのかな?
めんどくさいので、私は「北条」と書いている。







北条早雲公像





小田原駅西口。







北条早雲公像。
「火牛の計」を模したもの。
早雲が韮山→箱根→小田原と入った際、牛の角にたいまつを結んで
大軍の夜襲に見せかける戦法で、当時小田原を支配していた大森氏を破った。
その100年後には、逆に秀吉の一夜城作戦に破れたのだから
歴史というものは皮肉である。






<北条早雲は戦国時代に相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の
関八州のほか、伊豆、駿河に勢威を及ぼした小田原北条氏五代の祖である。>






北条氏政・氏照の墓所






にぎやかな街中にひっそりとたたずむ墓所。
まさかこんなところにお墓があるなんて、ってかんじで
小田原の住民も知らない人が多いようだ。



  

<北条氏政は北条氏四代の領主。氏照は氏政の弟で、
八王子など5つの支城の領主でした。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより
小田原城が落城すると、五代領主氏直は高野山に追放され、
父氏政とその弟氏照は城下の田村安斎邸(現南町)で自刃しました。>

氏照が八王子城の領主だったという点を記憶しておいてね
 





階段を昇ったところにある小さな墓所。



    

左:3つ並んだお墓の、一番右側の大きいのが氏政夫人の墓。
中央が氏政の墓。その左が氏照の墓。
右:お墓の前にある「生害石」。
この石の上で氏政と氏照が自刃したと伝えられている。
 





駅前の「ういろう」支店でお茶。C= (-。- )
京都の薬問屋・外郎(ういろう)を小田原に呼び寄せ繁盛させたのも
北条家なのだ。京都の店は現存していない。
右のお菓子は「ほうずき」という名前で、外側がういろう、
中に梅の香りの白餡が入っていた。






道路の向こうにそびえる小田原城天守閣。
本日の北条ゆかりの場所めぐりは、これにて終了。
お疲れさまでした<(_ _)>