激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
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 猫と氷
2011年06月30日 (木) | 編集 |




昨日ほどではないが、相変わらず暑い
そしてこれも昨日ちらっと書いた不気味猫チャーリー。
そのチャーリーが、この数日、裏庭にしつこく滞在中というわけで。
こうして見ると普通の猫のようだが
唇がなくて、てんで覇気もなく、体はヨレヨレ足はフラフラ。
その姿で暗い中にじっとたたずんでいると
初めて見た者は、きっと髪の毛が逆立つだろう(^^ゞ
なんちゃって。
いつ死ぬかいつ死ぬかと心配しているのだが
雑巾のようにボロボロになりながらも
暑い夏と寒い冬をいくつか潜り抜けて、生き永らえている。

塀の隅の方にじっとして、生きているのか死んでいるのか
わからない状態でくたばりかかっているので(^^;
わざわざエサの器を顔のそばに持っていった。
昨日はマタタビの粉をかけ、きょうは氷を乗せてやった。

暑い夏はこれからも続く。
昨夏は、目が悪く病弱なシッポマガリが死んだ。たぶん。
その前の冬は風邪をこじらせたチャイが死んだ。

自然は過酷だが、ふんばれチャーリー。
今年の暑さに負けるなよ。






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 暑い!
2011年06月29日 (水) | 編集 |

■湯河原32度。とにかく暑い(;´д`)ゞ
外猫たちもグッタリ。
不気味猫チャーリーもしばらくうちの裏庭に入りびたりで
その横着ぶりたるや、エサの器を目の前まで運んでやって
ようやく食べるというありさまだ。
わたしゃ、あんたの専用メイドじゃないよ


■この猛暑と節電と自粛で観光地は干上がったまま
政治の貧困で日本全体が萎縮してしまっている。

と愚痴りながら、ほんのちょっといい話題を。






放射線の代わりに当てた紫外線で発光する
新素材のプラスチックで作ったコップやペットボトル
(東京新聞より)



   東京新聞 6月29日
     http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011062901000163.html

       プラスチックで放射線検出 新素材のセンサー開発

 放射線が当たると発光するプラスチック製の新素材を京都大原子炉実験所の中村秀仁助教(放射線物理学)らのチームが開発した。福島第1原発事故で関心が高まる放射線測定器に応用可能で、安価なセンサーとして期待できるという。

 成果は29日、欧州物理学会速報誌で発表した。

 開発したのはペットボトルの主成分を改良したプラスチックで、放射線が当たるとその強さに応じて発光する。数センチ四方の薄い板状に切り分け、測定器内部に装着すれば、光を電気信号に変換して放射線量が算出できる。

 プラスチックのため加工が簡単で、センサーの大型化も可能。




■リストバンドにしたり、この素材で服とか靴を作れば、身近な放射線を
感知できて便利かもしれない。
ペットボトルのリサイクルにもなるし、現在の線量計の10分の1の値段に
なるということなので、一刻も早い実用化をお願いしたいものだ。
また紫外線でも発光できるので、ムード照明などにも応用できるのではないか。







 東電と菅内閣は「茶番で非情」という相似形
2011年06月28日 (火) | 編集 |

■予想されていたとはいえ、本日開かれた東電の株主総会そして民主党の
両院議員総会の内容は共にひどく、大手メディアを含めた原発マフィアと
政治ゴロがいかに日本を食いつぶし劣化させてきたかを改めて認識させるものだった。







NHKニュースより



■東電の株主総会が本日28日、原発事故後初めて都内のホテルで開かれた。
出席者は過去最多の9309人、所要時間も過去最長の6時間に及んだ。
株主たちからは原発事故の対応のまずさや経営責任を問う激しい批判が噴出し、
そのうちの株主402人が「原発撤退」を定款に盛り込むよう求めた株主提案を
行った。
この提案には多くの個人株主と福島県南相馬市、同県白河市も賛成の手を挙げた。

しかし会場の前方席は企業株主たちが占め、金融機関などの大口株主は事前に
委任状を提出していたため、原発撤退の提案は反対多数で否決。
議長の勝俣恒久会長の解任動議も否決。
西沢俊夫常務の社長就任などの選任議案も可決された。

会場では原発撤退提案や議長解任動議には賛成多数の手があがっていたが、委任状を
たてに勝俣会長はろくに数を確かめもせずに、すぐに否決。
あまりにひどいやり方に憤りの声があがった。


■株主総会の時系列内容については以下を参照のこと。


   岩上安身氏、木野龍逸氏、郷原 信郎氏による、
       6月28日「東京電力株主総会」実況(暫定)

       http://togetter.com/li/155198      









時事通信より



■一方こちらは民主党の両院議員総会。
「一刻も早くお遍路へ」などと菅辞めろ発言が続く中、またまた首相のこんな
あきれた延命発言が飛び出した。


   NHK 6月28日
     http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110628/t10013828191000.html

      “選挙の争点はエネルギー” 

 菅総理大臣は、民主党の両院議員総会で、次の衆議院選挙の最大の争点は、原子力行政を含めたエネルギー政策の見直しになると発言し、在任中に一定の方向性を見いだしたいという考えを示しました。

 この中で、菅総理大臣は「原発事故を踏まえ、この国会で何としても再生可能エネルギー買い取り法案を成立させなければならない」と述べました。その上で、菅総理大臣は「エネルギー基本計画の見直しも含め、エネルギー政策をどのような方向に持っていくかは、次の国政選挙でも最大の争点、議論になるのではないかと思っている。後世に禍根を残すことのないよう、残された期間の中で、原子力行政の方向性だけは示したい」と述べました。菅総理大臣は、退陣の条件の1つとして、再生可能エネルギー買い取り法案の成立を挙げており、党の内外では、この法案が否決された場合、衆議院の解散、総選挙に踏み切ろうとしているのではないかという見方が出ているだけに、今回の菅総理大臣の発言は、さまざまな憶測を呼ぶことも予想されます。



■赤字の部分、「残された期間の中で」になっているが、実際には「残された2年間で」
と言ってたと記憶する。
ってことは、まったく辞める気なんかさらさらないってことだ。
どこまで厚顔なペテン師なんだとあきれるばかりだ。







同じく時事通信より

雛壇の上のメンバーらは足を組んで、緊張感なし。
人命より原発大事の東電、国民生活より権力大事の菅首相、
被災地の復興より選挙大事の議員たち(与野党含めて)。
こいつらを一刻も早く成敗する方法はないものか。









 福島県民の内部被曝検査始まる 別の検査では、検査対象15名全員から放射性セシウムが検出された
2011年06月27日 (月) | 編集 |

■福島原発事故から3ヵ月以上経つのに相変わらずすべての対処が遅い
政府や国に対し、住民の内部被曝への不安が高まっている。
ここにきてようやくというか、なぜもっと早い時点で対処できなかったのかと
腹立たしいかぎりではあるが、福島県で住民の内部被曝検査がはじまった。






写真はNHKニュースより。



   時事通信 6月27日
     http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011062700571

   検査の住民「ほっとした」=結果待ち、不安も-福島の内部被ばく評価

 福島第1原発事故を受け、福島県が始めた住民の内部被ばく量調査。放射線医学総合研究所(千葉市)で検査を受けた住民は27日、「ほっとしたが、結果が出るまで本当に安心はできない」と複雑な気持ちを語った。
 この日検査を受けたのは、同県浪江町の30代から60代の男女10人。福島市に避難している男性(35)は「3人いる子供の方が心配。(放射線は)目に見えないところが怖い」と顔をしかめた。
 避難所を4、5カ所転々としたという女性(35)は「情報が入らず、被ばくの状況自体知らなかった」と振り返った。事故3カ月後の調査開始について、「もう少し早くできれば、状況も変わったかもしれない」と語った。
 県地域医療課によると、27日から4歳の子供を含む120人が検査を受け、7月中旬に内部被ばく量の評価結果が判明する見通し。この女性は「私に影響がなければ、似たような状況の人に安心してもらえる」と期待した。
 放医研の検査では、最初に鏡のような測定器の前に立ち、約20秒間、体の表面に付着した放射性物質の量を測定。ベッド式の「ホールボディーカウンター」に約3分間あおむけになり、体内の放射性セシウムを主に検出する。最後に甲状腺に取り込まれやすい放射性ヨウ素を測定するため、首に約3分間、検出器を当てる。検査時間は1人10分に満たない。
 放医研は今回の検査結果と、採取した尿の放射性物質との関連を調べ、尿検査のみでおおよその被ばく量を推計できるか検討する。




■ホールボディーカウンターによる約3分の短い検査で大丈夫なのだろうか?
きちんと測るには30分くらい必要だときいているが…。
もちろん計測するにこしたことはないが、安全基準をゆるくしたりといった
ご都合主義によって、被曝していないので大丈夫などと繰り返しだまされない
ように、十分注意しないとね。

一方これに先立って行われた民間の放射線研究者らの調査では、内部被曝の現状が
明らかになった。
27日の県民検査で、「放医研は今回の検査結果と、採取した尿の放射性物質との
関連を調べ、尿検査のみでおおよその被ばく量を推計できるか検討する」と報じられて
いるが、以下の記事を読めばわかるように尿検査のみでも内部被曝が判定できるのだから
特に乳幼児やお年よりは、さっさと尿検査を行えばいいのだ。
その上で疑わしいケースは詳しい検査をすればすむのに、こうした点の情報共有は
どうなっているのだろうか。



   共同通信 6月26日
     http://www.47news.jp/CN/201106/CN2011062601000778.html

       福島2町村の15人が内部被ばく 福島の2町村

 広島、福島の放射線研究者らが福島県飯舘村と川俣町の住民計15人の尿を検査したところ、全員から放射性セシウムが検出され、内部被ばくをしたとみられることが26日、分かった。

 両町村は福島第1原発から30~40キロの距離。調査した広島大の鎌田七男(かまだ・ななお)名誉教授(放射線生物学)は「今後、汚染された野菜などを食べなければ心配はないが、原発事故が収束しなければこの地区に住み続けるのは難しい」として、これらの地域を計画的避難区域とした政府の方針に理解を示した。







 小笠原諸島に続き「平泉」も世界遺産に
2011年06月26日 (日) | 編集 |

■今回の世界遺産登録には、たぶんに震災で意気消沈している日本への
政治的配慮もあってのことだろうが、少しでも被災地へのエールと観光客の
増加があれば復興への力強い足がかりになるので、久々の明るい話題となった。


■平泉については、土方歳三の発句について書いたときに参照した矢口高雄の
マンガ『奥の細道』に詳しく載っているので、再びその部分を紹介したい。





    

松尾芭蕉が門人の曾良(そら)を伴って「みちのく行脚」に出たのは
元禄2年(1689年)3月27日(新暦5月16日)
芭蕉46歳、曾良41歳の年だった。

左:江戸・深川を出発して奥州平泉に着いたのは
5月13日(新暦6月29日)。
1189年、奥州に落ち延びてきた源義経が非業の最期をとげた高館。
ちょうどその500年後に、奇しくも芭蕉はこの地を訪れたのだった。

右:唐の詩人杜甫(とほ)が詠んだ
「国破れて山河あり 城春にして草木深し」を
思い浮かべながら、芭蕉は後世に残る名句を詠む。

「夏草や兵どもが夢の跡」

このとき曾良が詠んだのは
「卯の花に兼房(かねふさ)見ゆる白毛(しらが)かな」
兼房とは義経に殉じた忠臣の名である。
 




    

左:長い間戦乱が続いた奥州を平定したのが
11世紀の豪族・藤原清衡(きよひら)である。
清衡は戦乱で失われた御霊を供養し人心の安定を図るために
平泉に居館を構え、地上の極楽浄土国家の建設に着手した。

右:その後の度重なる火災によって、
芭蕉が訪れた頃に中尊寺で現存していたのは
金色堂(こんじきどう)と経堂(きょうどう)の一部だけだった。
その金色堂も風雨による侵食を防ぐために
周囲を鞘堂(さやどう)で覆って保護されていた。
そして鞘堂の中には黄金に輝く金色堂があった。
芭蕉が見た、五月雨の中にたたずむまばゆい金色堂…。

「五月雨の降り残してや光(ひかり)堂」
 







 土方歳三考 その3 ~局長・近藤勇が幕府を見限った日~
2011年06月25日 (土) | 編集 |

■3.11大震災から100日以上が経っても震災復興や原発事故収束の
道筋が見えず、政治状況は混迷する一方で、国民の徒労感は限度に近づいている。
このあまりの政治の無策ぶりに、日本を見限る海外の声も高まっているという。
政治家も官僚も国民も、長くマンネリ化した社会システムの中で怠惰をむさぼり
危機管理意識と自主独立精神を失ってしまったツケは大きい。


■150年前の幕末も現在の混迷状況とよく似ている。
普段なら何事もなく穏やかに繰り返していた日々が、諸外国からの圧力を受けて
一変、次第に激しい内戦へと拡大していった。
そしてこの非常時に際し、トップリーダーである徳川幕府の最後の将軍は臣下を
見捨てて逃走し、内戦で大敗北した幕府軍リーダーたちも自らの責任を取ろうと
しなかったのだ。
非常時への備えを怠り、戦士としての覚悟も実力も欠いたまま、勝てる戦争を
むざむざ落としてしまった既存の武士階級の罪は大きい。


■尊王攘夷の強い志を胸に、将軍警護の浪士組の一員として京に上った近藤勇は
八・一八の禁門の政変(1863年)を契機に徐々に幕府の唱える開国攘夷へと
方向転換し(とはいえ長州藩に対する当時の一橋慶喜の煮え切らない態度に近藤は
激怒している)、やがて攘夷は無理と悟った長州藩が倒幕へと方針を変え始めると
それに呼応して近藤新選組も左幕へと態度を定め、慶応3年(1867年)に、
それまで辞退していた幕臣になることを承諾した。


■しかしながら新選組の理解者であり公武合体論者である孝明天皇が急死して
(公家の岩倉具視が毒殺したとの説もある)、15代将軍になった徳川慶喜が
大政奉還を行ったことで、ついに徳川幕府は終焉してしまった。
実はこの大政奉還の建白書については、事前に近藤が後藤象二郎から見せてもらう
約束を取りつけていたが、約束は反故にされ、山内容堂から慶喜に渡されたのだった。


■さて倒幕の準備を進めていた薩摩藩と岩倉具視は、大政奉還では慶喜が延命して
しまうと恐れ、大政奉還を唱えた坂本龍馬を暗殺(実際の下手人は京都見廻組)。
同じ頃新選組の伊東甲子太郎一派は御陵衛士として新選組から分派し、近藤暗殺を
図るが、逆に襲撃されてしまう。
伊東は幕府を否定し、朝廷が政治を動かす王政復古を構想して、その実現のために
新選組を利用したのである。また龍馬暗殺の前に新選組が狙っていると龍馬に忠告に
行ったのも伊東だし、暗殺後の現場に新選組の原田佐之助の刀の鞘が落ちていたと
証言したのも、同様に伊東だった。
伊東のうさんくささに気づいていた龍馬はこの忠告を無視し結局殺されてしまうが、
伊東が薩摩藩と関係を持っていたという見方もある。
この伊東の分派である御陵衛士の残党は、その後伏見街道で二条城での軍議から戻る
近藤を狙撃して右肩に重症を負わせた。また流山で新政府軍に出頭した近藤を新選組
局長だと正体を暴露したのも、同じ残党メンバーで薩摩軍に加わっていた加納鷲雄
だった。


■倒幕を狙う薩摩は浪士隊を作って江戸で騒ぎを起こした。強盗や殺人、放火と乱暴
狼藉を繰り返し、江戸城二の丸も砲撃して火事を起こしている。
江戸での破壊活動はドラマの『燃えよ剣』で、江戸城の火事は『大奥』でも描かれた。
これにはついに幕府もキレて、江戸の薩摩屋敷を焼き討ち。
負傷した近藤は病気の沖田総司と共に将軍徳川慶喜のいる大阪城へ、局長代理の
土方は伏見奉行所に布陣して、ついに鳥羽伏見戦争が勃発したのだった。


■ところが鳥羽街道において新選組の軍事作戦は成功したものの、幕府軍を率いる
陸軍奉行の竹中重固の作戦はボロボロで、圧倒的に大軍だったにもかかわらず大敗北を
喫したのだった。敗走する幕府軍と土方新選組も大坂(現在の大阪)へ退避した。


■と、ここまでの長~い前振りのあとで(^^; 鳥羽伏見戦争で敗北した近藤(負傷で戦闘
には参加していない)の心境を伝えるエピソードを紹介したい。
いくら命がけで幕府を守って戦っていても、そのトップやリーダーたちが腰抜けで無能の
集まりだったら、ほんとうにやりきれない思いに陥るだろう。








京都チャンネル・新選組隊士列伝 最終回
「土方歳三編 近藤、土方別れの地~下総・流山をゆく~」
伊東成郎氏(幕末維新研究家)



■番組の冒頭で伊東成郎氏が解説した内容はこうだ。

 慶応4年1月3日、当時新選組が陣を敷いていた伏見の地で新政府軍と旧幕府軍が衝突いたしました。新政府軍は、出撃している新選組の隊士たちを高台から狙撃したとも伝わっております。
目撃者の新政府軍兵士の回想談話によりますと、新選組の隊士たちは、なんと彼らに「愉快に銃殺されてしまった。そして死んでいった」と記録されています。
実に悲惨な戦いでした。

 戦争は場を南に移動しながら、連日展開されていった。そのさなかのことです。戦場に錦旗(きんき)が立ちました。錦の御旗です。この旗に抵抗すると朝敵になる、そういう旗でした。うろたえた旧幕府軍の兵士たちはこの予期せぬ展開に総崩れになる。
このとき旧幕府軍の総大将でもありました15代将軍徳川慶喜は、大坂で戦況を見ておりました。
戦場に錦旗が立つ。
このニュースにもちろん慶喜は大変動揺いたします。そしてただちに江戸へ引き返そうといたしました。
そのときのことです。
慶喜の前に立ちはだかった男がいました。それが近藤勇だったんです。
近藤はこの戦争の直前、銃で右肩を撃ち抜かれまして、新選組の同志たちと離れてひとり大坂で療養しておりました。

 明治30年に『日本人』という雑誌に紹介されたこんなエピソードがあります。
狙撃された肩の傷も痛々しい近藤は、城を出ようとした将軍慶喜に向かってこう言ったそうです。
「私は死ぬことをも恐れない男たちとある計略を考えています。上様、お願いですから、今ひと時この大坂城に留まり、この展開を見届けてください。そのあとで城を出ることを考えても遅くはございません」
近藤は血を吐くような思いで将軍慶喜に意見を述べました。
しかし慶喜は近藤にこう言ったそうです。
「おまえの気持ちはなんと猛々しいことか。でも今となっては、戦況はわれわれにとって不利になってしまった。わが軍の兵士たちも戦場に散り、まわりは敵ばかりである。思えば死ぬこともいとわず、火をも水をも省みずに戦うような、近藤、おまえのような男ははたしてわが軍、幕府にどのくらいいるのだろう」
その言葉を聴き、近藤勇は涙を浮かべて将軍の前から退去していったそうです。

 このエピソードが雑誌に紹介されたとき、将軍の徳川慶喜はまだ東京に存命中でした。慶喜の死はこれから16年後のことです。
だから私にはどうしてもこのエピソードがフィクションだったとは思えないのです。
はからずも戦争直前に負傷いたしまして戦場に立てなかった近藤勇は、そのあと土方歳三と共に、再びさらなる反撃の道筋を立てようとしていたのではなかったでしょうか。
しかし近藤にとって最も忠誠心を向けるべきはずだった将軍、その将軍は近藤の思いを拒絶したんです。
でもいかに近藤が幕府にとって頼りになる人物であったか、慶喜ははっきりと近藤本人にそう伝えておりました。

 近藤勇が生涯ただ一度、将軍に個人的な思いのたけを述べたこの日は、慶応4年1月7日でした。
そして私はまさにこの日、そしてこの瞬間に、新選組局長としての近藤勇は、幕府に奉じてきたすべての熱い思いと戦意を失ったのではないか、そう思うのです。
それはまた新選組という最強の組織が、ある意味で終焉を迎えることになったきっかけとなった瞬間ではなかったかと思うのです。




■近藤勇というと多摩の百姓あがりの人斬りにしか能のない男、といった
ステレオタイプ的なイメージが未だに散見されているようだが、残念ながら(^^;
ドラマや小説に描かれたイメージとは異なり、門人を多数抱える江戸の道場主
である近藤はなかなかの教養人で、史的資料として貴重な書簡も多く書き残している。
勤皇の志士に劣らぬ尊王攘夷思想の持ち主で、攘夷の目的で上洛をしたが
意に反して市中見廻りの役目に甘んじなければならなかった。
近藤も新選組メンバーも、外国の脅威から日本を守るという思いは一緒だった。
しかし時代の急激な変化の中で従来の目的としての攘夷はすでに見失われ、
幕府崩壊の直前の慶応3年に新選組全員が幕臣に取り立てられた。
近藤は「御目見以上」である。
攘夷を捨て、代わりに徳川幕府に忠誠を誓うという思想的転換をはたした近藤が
その将軍慶喜から拒絶されたときの心境はいかばかりだったろうか。
しかしながら近藤と土方は、その後は幕府の意向とは違う、自分たち独自の戦いを
継続していくことになる。
近藤の斬首後は、今度は土方が新選組を率いて蝦夷地まで戦いの場を広げていくのだ。





   土方歳三考 その1 ~豊玉発句集~
     http://tekcat.blog21.fc2.com/te-20110616.html

   土方歳三考 その2 ~新選組と日の丸~
     http://tekcat.blog21.fc2.com/blog-date-20110621.html






 北条早雲の小田原城
2011年06月24日 (金) | 編集 |



昨日23日、午後2時過ぎに箱根へ行った。
湯河原は29度で暑かったが、箱根峠あたりでは22度と7度も低い。
あたりは濃霧で視界が極端に悪い。
地元の車も道に迷っていたくらいだ。
前の車を信用してついていくと、冗談抜きで崖から落ちかねない。
私の母も若い頃、箱根をドライブ中に崖から転落して怪我をした。

上の写真は芦ノ湖湖畔の箱根神社。
パワースポットらしく、周辺とは空気の匂いも違う。
大量の霧が、まるで雨のように上空から降りてくる。
観光バスや外人客も多かった。




    

左:箱根神社の中にある九頭龍神社の龍神水。
右:神社のお茶処で。白龍ベリーアイスとからみ餅。
60センチのうどんでできた「いったんも麺」というのもあった(^^;
 






あまりに霧が深いので、箱根はやめて小田原に行った。暑いε-(´o`;A
小田原市の繁華街の中心部に小田原城址公園がある。
満々と水をたたえたお堀。




    

左:学橋を渡って行くと、お堀に棲む巨大な鯉の群れが寄ってくる。
右:二の丸広場(二の丸御殿跡)入り口。
小田原城を築いたのは15世紀中頃の大森氏。
その後、北条早雲(伊勢新九郎)のものになって規模を拡大、
豊臣秀吉の小田原攻めで落城し、北条氏は滅亡。
これによって戦国時代も終焉した。




  

左:二の丸御殿跡 説明文より
江戸時代の小田原城には、将軍の旅宿専用の「本丸御殿」と藩主の居館や
行政を行う政庁としての役割をもった「二の丸御殿」の二つの御殿がありました。
「二の丸御殿」は、三代将軍家光が上洛のおり小田原城に止宿した寛永年間
(1624~44)の頃が最も壮麗で、能舞台や唐門も備えた立派なものでした。
しかし、元禄16年(1703)に起きた大地震により小田原城は甚大な被害を受け、
「二の丸御殿」も倒壊し炎上してしまいました。その後再建され、徐々に増築された
ものの、以前の姿には到底及ばないものでした。

幕末の1865年には、将軍・徳川家茂(将軍上洛のおりに、後の新選組になる
浪士組が警護にあたった)が二の丸御殿に宿泊している。

右:ビャクシンの木(小田原市指定天然記念物)。
樹高約15メートル。







二の丸の正門にあたる銅門(あかがねもん)。
渡櫓門、内仕切門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造を持つ。
1997年に当時のままに復元。
2004年の大河ドラマ『新選組!』のロケでも使われた。




    

左:銅門で使われていたと伝えられる礎石。
箱根外輪山の安山岩で作られている。
手前の石は1.6トン、奥の石は1.8トンある。
右:銅門土塀模型(復元に先駆け製作された)。
江戸時代の工法、技術を忠実に再現している。




    

本丸東堀跡。
江戸時代の小田原城は本丸を堀が囲んでおり
二の丸堀とつながっていた。
最も幅があるところは20メートル以上もあった。
土手にあじさいの花が咲き誇っている。
手前にあるのは菖蒲畑。







堀にかけられた常盤木橋を渡って本丸広場へ行く。







常盤木門(ときわぎもん)。
小田原城本丸の正門にあたり、最も大きく堅固に造られていた。
周囲の多門櫓と渡櫓を配した枡形門の構造を持つ。
そばの巨松(おおまつ)にちなんで常盤木門と名づけられた。
1971年に復興。







復興された常盤木門。
江戸城の北の丸門と雰囲気が似ていて懐かしい。






常盤木門の内側。
ここから本丸になる。
小田原城本丸は東西83間(約150メートル)南北63間(114メートル)ほどの
規模を持ち、その西端に天守閣、中央にはかつて本丸御殿があった。




   

左:元禄年間には本丸の南側に七本松があったが
現在あるのはこの1本の巨松だけで、樹齢400年以上。高さは30メートル。
中:甲冑や当時の着物を着て記念写真が撮れる(^-^
右:櫓(やぐら)風の時計。
時間が遅くなったので天守閣には登れなかった。







天守閣(1960年に復興)。
天守閣も元禄16年(1703)の地震で倒壊・炎上したが、
3年後には再建されて、江戸時代を通して存続していた。
ところが明治3年(1870)に明治新政府によって廃城にされ
他の建物や門などと一緒に取り壊されたり売却されてしまった。
天守閣跡には大久保神社が建立され(1893)
小田原城址には明治天皇の御用邸が建てられた(1901)。
その後、昭和9年(1934)から少しずつ復興・復元が進み
現在に至っている。
天守閣の高さは38.7メートル、鯱(しゃちほこ)の高さは1.97メートル。
内部には小田原城の歴史資料や甲冑・刀剣・絵図・古文書などが展示されている。

二の丸広場にある小田原城歴史見聞館で、年取ったガイドさんに
風魔一族の墓所の場所を教えてもらった。ラッキー。
だめもとでも聞いてみるもんだワσ(^_^;)
風魔は北条家が召し抱えていた忍びと伝えられていて、頭目は風魔小太郎。
湯河原に来てから、いつかはこの小田原の風魔忍群の足跡を調べてみたいと
思ってきたが、なかなか手がかりが見つからなかったのだ。
もとより風魔の存在自体が伝説的でほんとうにいたのかもわからないし
北条家との接点も見つからないらしい(と、作家の夢枕獏さんが言っていた)。
とにかく今度時間が取れたら、さっそく墓所に行ってみよう。







 沖縄戦から66年目の「慰霊の日」 3.11大震災と重なり合う
2011年06月23日 (木) | 編集 |

■就寝前に、こんな時に大きな余震が起こるかもしれないと、ふと思った。
そのせいか、明け方に地震の夢を見た。
正夢だったのだろうか、今朝7時前に岩手県沖で大きな地震があった。
幸い津波警報は解除されたが、余震にはこの先も注意する必要があるだろう。






■最近、新選組についても少し書いているが、会津(福島県)→宮古(岩手県)と
土方歳三の転戦順に地震の震源が北上しているような…(((=_=)))
ま、それはさておき、冗談抜きに東北の内陸と北海道も今後の大きな余震に
注意してほしい。


■さて本日は、沖縄の66年目の「慰霊の日」である。
琉球新報の記事の一部をここで紹介したい。
沖縄を大震災の被災地や原発事故の福島、軍隊を国・政府に入れ替えて読めば
両者が驚くほど似ていることに気づくだろう。


   琉球新報 6月23日
     http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-178503-storytopic-11.html

    慰霊の日/不戦の決意、世界へ未来へ 平和研究の拠点設置を

(前略)
 本土決戦までの時間を稼ぐために、沖縄は「捨て石」にされた。その結果、大勢の住民が戦闘に巻き込まれ、島は焦土と化した。
 県によると、全戦没者数は米兵も含めて約20万人。そのうち住民は9万4千人が亡くなった。当時の人口は約50万人で、いかに住民の犠牲が多かったかが分かる。
 ところが、基本的な戦没者数(日本軍と住民)ですら国と県の把握数では違いがある。厚労省は18万6500人、県は18万8136人で約1500人多い。実際に収骨された数は、厚労省のまとめでは18万6523柱に達し、同省の戦没者の把握数を超えている。
 県の推計では約3800柱が未収骨。山野に眠ったままだ。不発弾は残り2200トン。年平均30トンを処理しており、あと70年かかる計算になる。
 沖縄戦は過去の出来事ではない。沖縄戦研究も、戦後処理の作業も道半ばである。 激しい地上戦が繰り返される極限状況の中で、日本軍によって住民が「集団自決」に追い込まれたり、虐殺されたりする惨事が発生。「軍隊は住民を守らない」という重い教訓を残した。
(中略)
 沖縄戦の史実に裏打ちされた平和思想の発信拠点として、平和研究センター的な役割を担う機関の設置を真剣に考えるべきだ。調査研究の成果を、積極的に全国、世界に向けて発信する機能が、沖縄には必要だ。悲惨な地上戦を体験した沖縄だからこそ、それができる。
 大震災でがれきと化した街並みは、灰じんに帰した沖縄と二重写しに見えた。天災は人知を超えていたが、戦災という人災は確実に足音が聞こえる。防ぐこともできる。全ての県民、国民と共に「不戦」の決意を新たにしたい。








 これでもまだ原発に依存したいですか?  米原発の75%から、放射性トリチウムが流出
2011年06月22日 (水) | 編集 |

■だから、原発事故の原因は地震・津波だけじゃないんだって!
老朽化や人為的な作業ミスによる事故も日常的に多発しているという
現実から目をそらしちゃいけない。
そしてこうした事故や危険性は、今までずっと隠されてきたのだ。
福島から遠く離れていても、これまで知らなかった別の汚染が見つかる
かもしれない。








    IBTimes 6月22日
      http://jp.ibtimes.com/articles/19878/20110622/664784.htm

     米原発の75%から、放射性トリチウムが流出

 米国内にある原子力発電所の75%から、放射性物質のひとつである「トリチウム」が流出していたことがわかった。地下水などに染み出しており、米当局が定める飲み水での基準濃度を数百倍も上回る放射性トリチウムが含まれた水もあったという。

 AP通信によると、米国内で稼動している65基の原発のうち、48基で放射性トリチウムの流出が確認された。そのうち37基からは、米当局による飲み水での基準濃度を上回るトリチウムが検出されたという。

 米原子力エネルギー協会のトニー・ピエトランジェロ(Tony Pietrangelo)氏は、「(放射性トリチウムの流出による)健康や安全の問題はほぼゼロだ」と述べた。しかしAP通信の調査によると、地下水に含まれるトリチウムにより、パイプが侵食されたり、地下に埋められた電線が影響を受けたりしているという。

 ただ、エンジニアのポール・ブランチ氏は、AP通信が報じた電線は地下に30-40年間埋められていたもので、「なんらかの原因で浸食を受けることもあるだろう」と分析している。

 原子力資料情報室によると、放射性トリチウムは非常に低いエネルギーのベータ線を放出する放射性物質で、半減期は12.3年だ。




■日米そろって「健康や安全性に問題はない」。
長い間米国に貢ぎ続けてきた日本は、原発事故が起きてもおとなしく
「ただちに健康には問題ない」「停止した原発を順次再稼動したい」と
最後まで米国の指図にしたがって、滅びへの道を駆け下っていくのか。

「想定外」だったのは原発事故評価尺度も同じ。
いっそ「レベル10」まで設けたらいかが?
レベル10は、全地球壊滅レベルってことで。



   共同通信 6月22日
     http://www.47news.jp/CN/201106/CN2011062201000197.html

       原発事故の尺度見直し8新設も IAEA事務局長が言及

【ウィーン共同】国際原子力機関(IAEA)の天野之弥事務局長は22日までに、ウィーンで開催中のIAEA閣僚級会合で、原子力事故の規模や深刻度を表す国際評価尺度(INES)の見直しに言及した。

 現行の基準によって、福島第1原発事故が旧ソ連のチェルノブイリ事故と同じ最悪の「レベル7」に分類されたことには異論があるのも踏まえ、「レベル8」など新尺度が設定される可能性も出ている。

 「INESの尺度をより良いものにできないか(専門家らに)検討を求めている」。天野氏は20日、加盟各国に訴えた。








 土方歳三考 その2 ~新選組と日の丸~
2011年06月21日 (火) | 編集 |

■未だにきちんとした決着がついていない「日の丸」「君が代」問題。
99年に国旗・国歌法で日の丸が国旗に定められたが、敗戦の総括がいい加減
だったために、日の丸の掲揚に抵抗を持つ人々も少なくなく、先頃の大阪府の
ように君が代斉唱時の起立強制など、この問題をめぐる軋轢が収まる気配はない。


■日の丸・君が代に抵抗があるのは、これらが戦争の記憶と強く結びついている
からだが、その一方で、では日の丸・君が代はどのように作られたのかと問われれば
あれ、どうだったかな?と首をかしげる人も多いのではないだろうか。
一般的には明治政府が制定したように考えられていて、だからこの新政府が大嫌いな
私のような人間から見れば、日の丸・君が代も嫌いという結論になってしまうのだ(^^;


■しかしながら実際には明治時代より前の幕末には、すでに日の丸が国旗と定められて
いたという説もあって、そうするといままでの常識が覆ってしまい、なにやら複雑な
思いにとらわれる。
いずれにせよ、単なる感情論を超えた、国旗・国歌についてのタブーなき国民的議論が
必要だと痛感している。


■で、日の丸と幕府軍、そして土方歳三について書かれた興味深い文章を紹介したい。
まず最初は、『週刊ビジュアル日本の合戦 №28』の「榎本武揚と箱館戦争」の中の
コラムにあったものから。


    「日の丸」は幕府の旗だった

 榎本艦隊の「回天」は米国旗を掲げて、宮古湾に突入した。「甲鉄」強奪のためで、同艦への接近に成功すると、幕府の旗「日の丸」を掲げて戦闘に入った。
「日の丸」は江戸時代初期に朱印船などに掲げられていたが、安政元年(1854年)に幕府が、日本の周辺に増えてきた外国船と区別するため、「日本総船印(そうふなじるし)」に定めた。また安政6年には正式に幕府の旗とした。
 明治3年(1870年)、新政府は「日章旗」を日本国籍の船の標識として制定する。以後、実質的に日本の国旗になった。





■ちなみに「君が代」も、実は江戸城で、将軍のお祝いの歌として歌われていたのを
国歌の制定に関心のない明治新政府に、静岡藩士の乙骨太郎乙(おつこつたろうおつ
変な名前!)が提案したら、国歌に決まってしまったという経緯を持つ。おいおい。

以下に古いテレビドラマの一シーンをアップする。
ドラマとはいえ、あなどれないワ(^^;;






箱館・五稜郭での土方歳三(演じるのは栗塚旭)
テレビドラマ『燃えよ剣』(司馬遼太郎原作) 最終回より
1970年放送 






同じく『燃えよ剣』より
箱館戦争・二股口攻防戦で
土方軍陣地にひるがえる日の丸の旗。





■幕末の日の丸に関しては、評論家・松本健一氏の、上記のコラム内容と
重なるが土方にも言及した面白いエッセイがある。
長いが以下に全文を転載したい。



       土方歳三の「日の丸」


 土方歳三がひきいる新選組の加わった箱館政府・五稜郭には、「日の丸」がひるがえっていた。それゆえ、箱館政府軍が宮古湾で海戦をおこなったさいには、「日の丸」の旗をかかげて明治政府軍の軍艦に攻撃を仕掛けたわけである。

 明治2年(1869)3月、箱館政府の陸軍奉行並にえらばれた土方歳三を隊長とする3隻の艦隊(回天丸、蟠龍丸、高雄丸)が、ストーン・ウォール号(甲鉄艦=のちの日清戦争における東艦)や薩摩の春日丸などをふくむ明治政府軍の艦隊に、奇襲攻撃をかけた。戦闘のさいには国旗をかかげなければならない。と当時の万国公法(『万国海律全書』)には記されてあった。
 そこで、旧幕府軍の3艦は、新政府軍が監視している箱館を出航するさいには、「日の丸」ではなくて敵方の新政府軍の旗である十六弁の菊紋旗をかかげていた。このため、箱館港を出てゆくときにも新政府軍に気づかれなかった。宮古湾の入口に到着すると、遅れた蟠龍丸をのぞいて、一艦の回天丸はアメリカ国旗を、もう一艦の高雄丸はロシア国旗をかかげた。高雄丸が攻撃直前に機関部に故障をおこすと、土方が乗っている回天丸一艦だけで宮古湾に突入することになった。

 アメリカ国旗をかかげた回天丸は、ストーン・ウォール号を乗取る目的で、同艦に体当たり攻撃をかけた。ただ、土方はその攻撃開始の直前に、星条旗を下ろして、「日の丸」をかかげたのである。つまり、戦闘のさいにはみずからの国旗をかかげていなければならない、という万国公法(国際法)を守ったわけだ。
 このトリッキーな戦術は、オランダで国際法(当時の訳は万国公法)を学んできた箱館政府の総裁、榎本武揚が『万国海律全書』を手に、考えて、土方に伝授したものだった。榎本はオランダから幕府注文の蒸気軍艦・開陽丸を受けとり、その艦長となって日本に回航中、マストに国旗としての「日の丸」を掲げていた。

 では、その当時、新選組副長としての土方歳三に、「日の丸」はどんな意味をもっていたのだろうか。
 幕府によって「日の丸」が日本国総船印、つまり国旗に制定されたのは、ペリー来航の翌年、日米和親条約が結ばれた嘉永7年(1854)の7月11日のことだった。新選組が結成されたのは、文久3年(1863)だから、その9年後である。土方も当然その「日の丸」の意味を知っている。
 しかし、新選組が京都守護職の支配下でたたかっているときは、相手は尊皇派、ひいては討幕派だから、「日の丸」を使う必要も、機会もない。新選組の隊旗は、周知のごとく、山形に「誠」の一字である。その忠誠の対象は、言うまでもなく、徳川幕府だった。それゆえ「局中法度書」の第一条に「士道ニ背キ間敷事」とあるわけだ。
 土方ら新選組の隊員に「武士」の資格を与えてくれたのは、徳川幕府である。そうだとすれば、その幕府に忠誠を尽くすのが「士道」ということになる。土方らの忠誠心の対象は幕府であった。

 ところが、その幕府が朝廷に「大政奉還」をおこなった。そうして、幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗れたあとでも、新選組は戦いつづけるのである。そのばあい、新選組の忠誠の対象は何になるのだろうか。
 旧幕府軍は、鳥羽・伏見の戦いのあと、上野の彰義隊でも、奥羽列藩同盟でも、五稜郭の箱館政府でも、すべて「日の丸」をかかげていた。じっさい、彰義隊の旗は、「日の丸」の下の白地部分に「彰」と書かれたもので、それはいま靖国神社に保存されている。また、奥羽列藩同盟の「日の丸」は鶴岡の到道館に、庄内支藩の松山藩の「日の丸」の肩章は松山郷土館に残されている。そうして、箱館政府のものは、いま五稜郭記念館に残されている。

 それらのことを考えると、わたしの「官軍は錦旗、賊軍は日の丸」(『開国のかたち』1994年刊)という仮説は、いよいよ真実味をおびてくるわけだ。
 土方歳三が新選組をひきいて戦いはじめるのは、近藤勇が流山で捕われた以後のことである。そのあと、新選組が会津で戦ったときには、すでに「日の丸」をかかげていたらしい。「日の丸」の旗それじたいについてもそうだが、新選組の隊旗もこのあたりから微妙に変わりはじめている。山形の上に「誠」の字を書いたもののほかに、山形の上に「日の丸」が描かれたものがでてくるのだ。
 この山形の上の「日の丸」ということになれば、これは明らかに新選組(山形)と日本の国旗との合体である。そのことは、新選組の忠誠の対象が幕府ではなく、主観的には日本そのものになっていることを意味していたのかもしれない。土方の新選組は戊辰戦争の渦中にあっては、みずから日本国家の正統の意識をもって、この戦争を戦っていたのではないだろうか。

 たとえば、会津で戦死した漢(あや)一郎の絵姿――これは新選組嚮導役の中島登(のぼり)が箱館で降伏し、その収監中に描いたもの――には、「旗役頭取」(軍旗手)の漢がたてた新選組の旗として、「日の丸」の下の白地部分に山形が描かれているのだ。
 また、新選組の前身である浪士組に加わって、近藤や清河八郎とともに上洛したメンバーの一人で、文久3年時点での新選組名簿を書き残した早川文太郎の肖像画にも、「日の丸」と山形の旗印が描かれている。ちなみに、この早川はその後、新選組に加わったことまでわかっているが、会津の土方新選組には加わっていない。
 ついでながら、箱館政府の新選組嚮導役となった中島登の遺品として残っているのは、従来どおりの山形に「誠」の字の旗と、日章旗である。

 ともあれ、近藤勇が捕らわれたあと、土方歳三がひきいて会津から五稜郭へと転戦していった新選組の忠誠の対象は、すでに幕府ではなく、日本という国家だったのではないか。新選組の隊旗と「日の丸」の組み合わせから、わたしはそういうことを想像するのである。


             文藝別冊『土方歳三 新選組の組織者』(河出書房新社)より





   土方歳三考 その1 ~豊玉発句集~
     http://tekcat.blog21.fc2.com/blog-date-20110616.html














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