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激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 新聞の世論操作は日露戦争のときから始まっていた
2010年10月16日 (土) | 編集 |




みなさん、こにゃにゃちわ!
にゃんこ内閣国家戦略局のキキです。
高いところからゴメンにゃさい。




■さて、「一つの妖怪がヨーロッパを歩き回っている――共産主義という妖怪が。」
と『共産党宣言』の冒頭で書いたのは、かのマルクスとエンゲルスですが
わたくし猫のキキが思うに、この言葉は現在の日本にも当てはまるんじゃないかと。
すなわち、「一つの妖怪が日本全土を歩き回っている――民意主義という妖怪が。」
ってなやつで、キモは民主主義ならぬ民意主義、言い換えれば「世論」のことですね。
で、この世論を炊きつけ煽ってるのがマスメディア。


■話変わって近頃は歴史ブームとかで、『龍馬伝』だの『坂の上の雲』だとかのテレビ
ドラマが大人気。ほんと、日本人って司馬遼太郎が好きね。
政治家までもが「にわか龍馬」になったり、明治の元勲きどりをしたり…。
ま、うちのロキばばも司馬の『燃えよ剣』のファンだから、他人のことは言えないけどサ。

で、『坂の上の雲』ってのは日露戦争史を描いているわけ。
テレビを見ているうちに、龍馬・幕末→明治維新→日露戦争という流れが脳裏にしっかり
刻み込まれる仕組みになってるんですにゃ。
そしてこの日露戦争当時の世情が、なぜか現在日本が置かれた状況によく似ていて、
なんとなくきな臭くてイヤ~な雰囲気を感じるのよね。


■でもって話は最初の、世論を利用するマスメディアのところに戻るんだけどさ。
先の世界大戦のときに朝日新聞なんかが、さんざん体制翼賛で戦争をあおったって
ゆ~じゃない?
戦後は反省して社会の木鐸(ぼくたく)の精神に立ち戻ったことになってるけど、
この数年来で、その精神とやらもすっかりメッキがはげて、今じゃ3K新聞と反動翼賛を
競い合っているんだから、あいた口がふさがらないわにゃ。

さらにあきれてアゴがはずれることに、新聞が政府の命を受け世論を利用して戦争に
導いたのは、先の大戦だけじゃなくて、はるか昔、日露戦争のときもそうだったんにゃん。


■ということで、ちょい長くなるけど、
井口和起・著『日露戦争 世界史から見た「坂の途上」』という本から、
その部分を紹介しましょう。

え~っ、その前にちょっと説明すると、日清戦争で日本が勝利したのを契機に、
東アジアは列強の草刈場というか、分割競争の舞台となったわけなんですが、
韓国と中国の支配をめぐって、ことに覇権争いをしたのが日本とロシアだったんですね。
でもってなんだかんだと互いに駆け引きやにらみ合いをする中で、ロシアが韓国の
竜岩浦(ヨンアムポ)を軍事占拠するという「竜岩浦事件」が起きたんですわ。
だけど日本側に入ってくる情報はどれもあやふやで、ロシアが竜岩浦で砲台工事をしてる
だの、いやあれは軍隊でなくただの森林会社だのと様々で、中でも日本の陸軍将校が流す
情報は特に中傷悪意のものが多かったんだって。
そして情報がはっきりしていないのに、この事件を利用しようとした陸軍の中堅将校たちが
わざと開戦論をあおったというんだから、あらら、先月起きた尖閣諸島での事件と
なんか似てません?
他方、彼ら好戦的な中堅どころに対して高級将校たちはちゃんと事態を理解していたので、
ロシアとの戦争には否定的だったそうな。ふ~ん、なるほど。
で、ここから新聞と世論の話になるんですにゃ。


新聞と開戦世論
 1903年6月10日、東京帝国大学法科大学教授戸水寛人(とみずひろんど)、小野塚喜平次、富井政章ら、いわゆる七博士が政府に「満韓交換」の対露方針に反対する強硬意見書を上げ、それが24日の『東京朝日新聞』に公表された。つづいて8月9日には頭山満、神鞭知常(こうむちともつね)、佐々友房らが対露同志会を結成して、ロシアの満州撤兵を決議し、活発な言論活動をくり広げた。多くの新聞が1903年4月から7月にかけてロシアの「竜岩浦事件」を何度も報じ、その記事もロシアの「兵営建設」の危機を訴えるものになっていった。
 それまで非戦論の立場をとっていた『万朝報(よろずちょうほう)』もついに「開戦論」に変わり、いったん戦争が始まれば「全国民の戦」いになる。国民はすべてその覚悟で力を合わせなければならないと強調した。日本は韓国を支配下において「文明の仁政」で「韓民を救い」、その「ねじけ曲れる心性」をきたえなおして「日本民族と同化」させるか、すべてを捨てるのかと、政府に決断をせまった。

世論の操作
「開戦論」の世論は政府によって意識的に仕組まれたようにも見える。戦前に閣僚の一人で、戦争直後には内務大臣にもなった政財界の有力者として有名な原敬はその『日記』に、「対露同志会」には政府が「多少の補助」をして、強硬な意見を述べるようにそそのかしていたようだとか、国民は政府の秘密主義で真相を知らず、そのうちに「国民の多数は心に平和を」望んでいたが言えなくなり、好んでいなかった「戦争に日々」近づいていったようだと書いている。そして、開戦直後の日記では国民の多くは戦争を望んでいなかったのは事実で、政府が七博士や対露同志会に「強硬論」を唱えさせたのは、強硬な態度をロシアに見せて交渉を有利にしようとしたのだが、「意外にも開戦」になったという経過のようだとも書いている。また、この頃東京帝国大学医科大学教授だったE・ベルツは開戦世論が高まっていく1903年の9月の日記の中で、日本の新聞の態度は「厳罰に値する」と記した。 
 もっとも、開戦直後に、文明史家・自由主義経済学者として有名だった田口卯吉のように、自分が主宰する『東京経済雑誌』に、今度の戦争は「事実」として「日本国民の興奮が政府の手を引き、足を引き、『無理やりに』戦争」をさせてしまったと言っても差し支えないと書いた人もあった。




■ど~です、皆さん?
日露戦争から100年以上たって、メディアも皆さん方国民も、果たして100年に値する
進歩を遂げたといえるんでしょうかね。
なに? ノータリンの猫よりはましだって?
国家戦略もまともに立てられないどこぞの悪寒内閣よりは、少なくてもあたしら猫族の
脳みその方が有効に活用されてると思いますがね。にゃはは(=^・^=)






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