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激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 硬直した思考では未来は拓けない(2)  ~諸葛孔明のエピソードから考える~
2010年06月01日 (火) | 編集 |

■昨日の続き…みたいなもの(^^;

日本の社会は実質的に、東大法学部卒の官僚が支配する官僚政治国家である。
しかしながら政権交代によって吹き出した諸々の矛盾や事業仕分けでの答弁に
よって、これまでずっと最高のエリート集団と信じ込まされてきた官僚たちが
実は思ったほど頭脳優秀ではないのでは…と衆人のしるところとなった。
むしろ他国との重要な駆け引きではずいぶんとヘタレな姿を晒しているじゃないか、と。



■さて昨日は坂本龍馬についてちょっと触れたので、今回は「三国志」から。
映画『レッドクリフ』を観て三国志に興味を持ったわけなのだが、その中で名高い
諸葛孔明が生きた時代は西暦3世紀で、これはなんと日本の邪馬台国の時代に相当する
と知ってショックを受けた( ̄□||||!!

で、「三国志」関連の本やマンガの中でなかなか面白かったのが、往年の人気マンガ
「スーパージェッター」の久松文雄が画を描いた『諸葛孔明』というマンガ本だった。
その第1巻「臥竜の志」では孔明の誕生から論客として頭角を現し始める青年期が描かれ
ていて、司馬徽(しばき)に師事した孔明と仲間の塾生たちの比較がとても興味深い。

 
        


水鏡塾で孔明は法家の学を中心に、論語・春秋・詩経などを学んだ。
塾には優秀な人材が多く、とくに崔州平・徐庶・石広元・孟公威らと孔明は親しく交わった。
他の学友たちが経典の語句の解釈にこだわり、掘り下げて学ぶやり方に対し
孔明は文章の要点を把握するだけの学習法だった。
しかし秀才ぞろいの水鏡塾の中で、孔明は独自のひらめきと、とくに応用の才で
水鏡先生も舌を巻くほどの能力を発揮した。


酒場で弟子たちが議論を交わしている。

「なんたって孔子の著した『論語』は最高だよ」
「オレも同感だね」
「人間ちゅうものをつきつめて探求し、あるがままに人間性を見ようという考え方が
 すばらしい」 
「おれはさ、孔子や孟子の性善説より、荀子・韓非子の性悪説こそ人間の本質を
 ついたものだと思うぜ」
「人間は与えられた環境しだいでどうにでもなるっていうのが韓非の考え方だろ」
「韓非は為政者にとって都合のいい政治家だよ。人民にとっては毒が強すぎる」
「孔明、おまえはどう思う?」


たずねられて孔明はこう答える。

「むずかしいな。オレにはどの学者の理論も最高とは言いきれん。
 みな長所もあれば短所もある。きみたちのように書物の知識を徹底して掘り下げ
 究めようというのもけっこうだが、肝心なことは、その知識が現実に役に立つか
 どうかを見究める知恵だよ」


ケチをつけられたと思った弟子の一人がいきりたつ。
しかし孔明は涼しい顔で、

「君たちほどの才があれば、努力しだいで州の牧や郡の太守ぐらいには出世できると
 思うよ」


孔明が帰った後で、塾の中でも飛びぬけた秀才の徐庶が酒を飲みながら仲間たちに語る。

「以前孔明と二人で話していたとき、やつはこう言ってたぜ。
 いずれは管仲や楽毅(がくき)のようになると」

驚く弟子たち。なぜなら…

管仲とは春秋時代、斉の桓公を補佐し天下の覇者とした名宰相である。
楽毅とはその四百年後、燕の昭王に仕え、大国・斉を攻め、七十城をおとした名将である。


「孔明のやつ、調子がいいぜ」と不満をぶつける弟子たちに対し、徐庶は…

「いや…孔明は、その二人に勝る大業を成しとげる人物だとオレは思ってる。
 やつなら太公望にも匹敵するぐらいの大器になるかも知れんぞ」
「徐庶、おまえマジで言ってるのか。冗談にもほどがある。太公望といえば周の
 文王・武王のもとで殷を滅ぼし、周王朝八百年の礎を築いた大賢人だぜ」


しかし徐庶は、かまわず続ける。

「孔明という男は学問を知識としてだけでなく、実践に生かす知恵と、大きな視野で
 ものごとを見る天性の資質を備えている。
 オレなんか、やつの足もとにも及ばんよ」




        



■ま、これは創作の中のエピソードだが、実際の孔明もこんなかんじだったらしい。

司馬徽が、彼ら自身を「俊傑」と称し、単なる学者と峻別していたように、襄陽(じょうよう)グループは、学問の習得を目指しただけではない。孔明が常に自分を管仲や楽毅と比し、龐統(ほうとう)が帝王学を論じたように、国家の経営を抱負とする「名士」の集団であった。
孔明が理想とする管仲は、春秋時代の斉の宰相で、桓公(かんこう)を補佐して最初の覇者とした政治家であり、楽毅は戦国時代の燕に仕え、斉に攻め込み70余城を攻め落とした武将である。
孔明は、故郷の斉に係わる政治家として管仲、将軍として楽毅を尊敬し、自己を準(なぞら)えていたのである。
友人たちが経典の細かい解釈に夢中になる中、孔明は、大まかな解釈に留めていた。荊州学は単なる経典解釈ではなく、乱世を収束させる実践を重んじたのである。孔明の態度は尊重され、やがて「臥龍(がりょう・まだ伏せていて世の中に現われていない竜)」と称されるようになった。
   渡邉義浩『図解雑学 諸葛孔明』より




■諸葛孔明というと「軍師」のイメージが強いが、実際の孔明は「名士」である。
上の渡邉氏の著書によると、【「名士」とは、知識人の間で名声を得て、それをもとに
地域社会で支配階層を形成する人々のこと】だそうだ。
そして三国志の時代は英雄・豪傑だけが活躍したのではなく、彼ら君主をバックアップ
して政権の維持・運用を可能にした「名士」の存在が大きかった。
いわば現代における「官僚」のようなものだ。
そしてこれもまた共通しているのだが、「名士」は仲間同士の情報ネットワークを広く
持っていて、だから孔明の外交手腕もこの情報網によって発揮されたのだが、
「名士」はしばしば君主の権力基盤を脅かすほどの力を持つことがあるため、三国時代の
君主たちは名士をいかに支配下に置くかにも頭を悩ませていたらしい(^^;


■孔明がその実力をいかんなく発揮するようになるのは、君主・劉備没後に蜀の丞相
(じょうしょう 宰相・首相)になってからである。
彼は様々な産業を興して国内を豊かにし、公平な法の遵守で国の安定を保った。

さて今も昔も政治家や役人(官僚)は賄賂や天下りで私腹を肥やす悪人といったイメージが
定番だが、孔明に際立つ特徴は法に基づく厳格で公平な統治を行った点にある。
褒賞も刑罰も実に公平で例外がない。
自身にも厳しく、死後に残った財産はごくわずかだった。


■もとより孔明は、いわゆるエリートではない。
そこそこの田畑(土地)があってそこから得る収入で食べるのには困らなかったが、
27歳で劉備に仕えるまで、定職につかずにぷらぷらと自己流で学問に励んでいた。
その孔明と、まだ武功もなく勉強嫌いで暴れん坊の劉備グループがくっついて
彼らの対極ともいえる大国・魏のエリート・曹操に戦いを挑むというストーリーが
時代を越えて庶民の夢と憧れをかきたてるのだろう。

なにより小国といえども蜀という一国の皇帝に劉備をつかせ、自らも宰相として戦国の
世を生きた孔明の戦略は、型にはまったエリート的な発想を超えたところにあったから
こそ成功を収めたのである。






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