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激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 日露友好の原点 西伊豆・沼津市戸田を訪ねて その2
2010年01月20日 (水) | 編集 |

■西伊豆の達磨寺へ行く途中で、偶然にも幕末のロシアとの接点の地、戸田(へだ)に
行き着いた。米国のペリーとの接点・下田はあまりに有名だが、もうひとつの戸田の
歴史にも、ぜひスポットライトを当ててほしいものだ。







まいどおなじみのご当地猫。
戸田造船郷土資料博物館前の猫たち。






    

左:よく見たら4匹ものんびり日向ぼっこ。
右:こちらでも毛づくろい中。
 








ここが戸田造船郷土資料博物館。
右側に、駿河湾深海生物館が併設されている。






    

左:博物館の建物の後ろ側、日向ぼっこの猫たちの向かいに置いてある
江戸時代の千石船に使われていた「四爪錨」。
右:博物館の側面。
「祝プチャーチン提督 来村150周年記念」とある。
 





   

博物館の周囲に設置されてあるメモリアルもの。
左:日露「友愛の広場」。友愛は、いにしえからの合言葉だった(^▽^)
中:日本初の本格的洋式帆船を完成させた近代造船の先駆者
上田寅吉翁の顕彰費碑。
右:「日ソ友愛の像」(上の像の方が切れてしまった^^;)の碑文より。
「海は世界をつなぐ友愛のきずなである。孤立した島から大陸から
人はこのきずなによって結ばれ、それぞれの文化を昂め文明を築いて生きた
幕末の頃、プチャーチン提督の乗船ディアナ号号が遭難するや戸田の人々は
これを助け、露国人と共に協力して代艦ヘダ号を建造した。
友愛の灯はこの時、あかあかと二つの国を映したのだ。爾来幾星霜、
世相はどのように変わろうとも二つの国の人々の心の奥底に
友愛の灯は決して消え失せることはないであろう。」





   

左:友愛の像の下に、またまた猫登場。
中:ディアナ号の錨。
「戸田塩の会」で売っていたロシアケーキの解説文より。
「日露和親条約締結のため日本に来航していたプチャーチン一行は、
安政東海の大地震によって引き起こされた津波が原因で、
乗艦していたディアナ号を失ってしまった。
ディアナ号の錨は引き上げられて富士市に保管されていたが、
後に戸田造船郷土資料博物館に寄贈され、玄関前に置かれることになった。
全長3.78m、重量は約4トンもあり、2000トンの巨大な帆船にふさわしい大きさである。
戸田村には500人あまりのロシア人が3ヶ月以上にわたって滞在し、
村民と力を合わせて帰国するための船を造った。
ロシア人が残した西洋型帆船の技術は、日本近代造船史の扉を開き、
戸田出身の船大工はその中心的な役割を果たしていったのである。」
右:博物館入り口。









ヘダ号の模型。
幕末の攘夷運動(異人を排斥せよ)の中で、幕府は戸田で代わりの艦船建造を決定。
伊豆韮山の代官・江川英龍(ひでたつ)が建造取締役に任命された。
この江川は蘭学を学んだ非常に優れた代官で、
新選組やその出生地多摩地方の人々とも深いかかわりを持っている。
この江川英龍と江川家臣団の偉業や足跡についても今後調べていきたいと思う。

戸田の船大工たちの優れた技術力にロシア人らは驚嘆した。
完成したヘダ号(プチャーチンが命名)は総長約24.6m、重量100トンに満たない
小さな船だったが、プチャーチンは感謝の印に数々の身の回りの品を残していった。
これらの貴重な品々も館内に展示されている。






   

左:日露和親条約。
中:その一部。領土問題について言及している。
右:博物館の玄関に掲げてある「ヘダ号推進式の図」。

ヘダ号建造に携わった船大工たちは、その後長州藩や田原藩など各地から招かれ
日本の近代造船発展の担い手となった。
江川家臣団が船の設計をした江戸の石川島は、後の石川島播磨重工業へと発展していく。
また外に顕彰碑のあった上田寅吉はオランダに留学して造船技術を学び
榎本武揚・土方歳三らと共に箱館戦争を戦った。
上田はその後赦免され、新政府のもとで純国産の軍艦の建造にかかわった。






   

併設の駿河湾深海生物館にて。
左:「生きた化石」と呼ばれるラブカ。古代のサメの形を残している。
下あごが前にせせり出て背びれも1つ少ない。
中:駿河湾の深海に棲むタカアシガニ。最近は戸田の名産品になった。
タカアシガニはヤドカリの仲間である。
展示されているのは体長3mを超える世界最大の標本。
うしろは珍しい巨大なサケガシラ。
右:さっき見かけた猫が碑文の前に移動していた。
落ち葉を踏み固めたベッドみたいになっている。





  

 左:若山牧水の歌碑と富士山。
「伊豆の国 戸田の港ゆ 船出すと はしなく見たれ 富士の高嶺を」
右:灯台と富士山。
この一日で5年分くらいの富士山を見た気分(^-^
 






   

左:博物館の帰り道、家並みの中に「造船記念碑」を発見。
中:こんなかんじ。
右:「静岡県指定 洋式帆船建造地」の看板。
目立たないので通り過ぎてしまいそう。





    

無事に達磨寺で新しい達磨を購入し、堂ヶ島を経て蛇石峠を越え下田へ。
まるでドラマの「トリック」に出てきそうな名前と地形の蛇石で
変なオブジェ発見!
山の中になぜか巨大なイセエビが(゜Д゜)
謎だ。
 





■黒船と共に下田へやってきて恫喝外交を展開した米国のペリーの陰に、同じ伊豆で
村民と心を通わせたロシアによるもう一つの開国物語があった。
ロシアと戸田の交流は、プチャーチンの帰国後から今日まで途切れることなく続いている。
娘のオリガ・プチャーチナも戸田を訪れ、ロシア皇帝ニコライも戸田を来訪する予定だった。
残念ながらこの来訪は、大津事件によって実現できなったが。
不幸な日露戦争を経て、1969年に当時のソ連政府は博物館建設のために500万円を
寄付し、75年の大阪万博でソ連館に展示したディアナ号の模型とステンドグラスも寄贈した。
またプチャーチン来航150周年記念の2005年、来日したプーチン大統領(当時)に
日本政府からヘダ号の模型と、沼津市からはヘダ号を染め抜いた大漁旗が贈られたという。

歴史にIFは無意味だといわれるが、もしも江戸幕府が先にロシアと友好条約を結んで
開国していたら、もっと穏やかに新時代へと移行して、日本はヨーロッパ型の民主国家として
東アジア諸国ともEU的なつながりを持っていたかもしれない。
この戸田に刻まれた日露の友好の歩みをたどっているうちに、ふとそうした思いが
沸き起こってきた。
プチャーチンと戸田との関係については、今後も学んでいきたいと思っている。






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