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激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 なぜポピュリズム政治にだまされ続けるのか
2009年07月02日 (木) | 編集 |


■テレビのどのチェンネルを回しても、急死したマイケル・
ジャクソンと自民党総裁の椅子に野望をむき出しにする
東国原・宮崎県知事の話題でてんこ盛りである。
この先もずっとこの話題を更新しながら続けるのだろうな
と思うと、気が滅入る。
旬のおいしい話題を与えておけば視聴者は満足すると、
いったいいつまでメディアは愚民化方策を採り続けるのだ
ろうか。

■とはいえ、単純でわかりやすく面白いものに視聴者が
反応しやすいというのもまた事実である。
たいして才能のないタレントでも、事務所の威光で毎日の
ように画面に露出されれば、実力以上の人気で飾り立てられ、ヒーローのように祭り上げられてしまう。
小泉政権以来、こうした手法は政治PRにがっちり利用され、国民はポピュリズム政治に取り込まれていった。


■そして今また自民党が仕掛けた民主党鳩山つぶし、東国原・橋下タッグによる
自民党延命策に、まんまと引っかかろうとしているのだ。
「郵政民営化イエスかノーか」の代わりに、「地方分権イエスかノーか」という
キャッチフレーズのもとに。


■まだ小泉旋風真っ只中の06年10月10日に、ブログで左上の『だまされることの責任
佐高信×魚住昭』(04年8月15日発行)という本を紹介した。
この本の冒頭に、映画監督伊丹万作氏のエッセイ『戦争責任者の問題』が載っていたからだ。
http://tekcat.blog21.fc2.com/blog-date-20061010.html

そして上記の本の「はじめに」には、佐高氏のこういう文章が記されている。
【敗戦直後に、日本人のほとんどが「だまされて」戦争に突入したと言い、自分の責任を
溶解させようと思っていったころ、伊丹は「だまされたものは正しいとは、古来いかなる
辞書にも決して書いてはない」と断定し、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」
と主張した。
 そして、「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされ
るだろう、と喝破したのである。
 残念ながら、その後の日本は伊丹のこの指摘通りになった。】


■伊丹氏のエッセイは終戦直後の1946年4月に書かれたものである。
そして同年9月に伊丹氏は病没する。
それから60年、佐高氏が危惧したように日本人は同じ過ちを繰り返しながら現在に
至っている。
ほんの少し前に「郵政民営化選挙」に熱狂して自民党を大勝利に導き、その結果
貧困に苦しみ、小泉にだまされた、もうイヤだ、政権交代だとこぶしを振り上げた先で、
首相に選ぶなら東国原がいいと、またもやあっさり誘導されてしまう。

こうした日本人の弱さ、狡猾さを自戒をこめて見つめ直す必要がある。
幸い伊丹氏のエッセイは青空文庫に収録されているので、全文はこちらでどうぞ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html

以下に、その一部を転記する。



■『戦争責任者の問題』  伊丹万作   (『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月)     

 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。

 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 
 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。

 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。





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