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 ミャンマー反政府デモで日本人ジャーナリストが射殺される
2007年09月28日 (金) | 編集 |


写真はミャンマー軍事政権への抗議デモに参加する僧侶や市民=26日ヤンゴン〔ロイター〕




■左の写真は、27日ヤンゴンで治安部隊が市民らに発砲。銃で撃たれた日本人映像ジャーナリスト・長井健司さんが仰向けに倒れているところが写っている。
長井さんは反政府デモ制圧を取材撮影中、撮影に気づいた1人の兵士に至近距離から射殺された。
(写真はロイター=共同)





      ヤンゴンでの反政府デモの経過

■今月18日ミャンマー最大の都市ヤンゴンで、約400人の僧侶が軍事政権の圧制に抗議するため平和的なデモ行進を行った。僧侶によるこうした大規模デモは初めてである。
仏教国ミャンマーで国民の尊敬を受けている僧侶たちの影響力は強く、デモが全国へ拡大するのを軍事政権は警戒した。

■24日になると市民たちが僧侶のデモ行進に合流し、その数は10万人に拡大した。
自宅軟禁中の民主化運動の指導者アウン・サン・スー・チーさんも自宅前でデモを支援した。

■27日朝、ついに軍事政権はヤンゴン市内の2つの僧院を急襲し、僧侶約200人が拘束された。また最大野党である国民民主連盟(NLD)のメンバーも拘束されたという情報も。
さらに僧侶を含む5人が死亡し、弾圧が本格化した。

■米欧を中心にミャンマー軍政への批判が高まり、国連安保理は26日ミャンマー政府に自制を求める声明を発表した。

■そして27日ヤンゴンでデモを取材中だった長井さんは、治安部隊の正面に立って部隊の様子を撮影。それに気づいた兵士に射殺された。このデモで長井さんを含む9人が死亡、11人が負傷した。




      まるで現代の「血の日曜日事件」だ

■この反政府デモと政府軍による武力制圧を見て、あの「血の日曜日事件」が脳裏に浮かんだ。
1905年1月、帝政ロシアのサンクトペテルブルク。
当時の圧制に対するロシア正教会のガポン神父の呼びかけで、立憲政治の実現をはじめ、人権と自由の確立や税制の改革、日露戦争の中止、そして労働者保護などを記した請願書を皇帝ニコライ2世に手渡そうと、7万人もの労働者たちが冬宮へ向けて請願行進をした。
しかし待ち構えていた軍隊の発砲で、4000人を超える犠牲者の血が雪の冬宮広場を赤く染めたのだった。





      ミャンマー情勢について

■もともとの国名はビルマ。
ミャンマーとは軍事政権による改称である。

■アウン・サンやネ・ウィンらの力によってビルマはイギリスから独立したが、ネ・ウィンはその後クーデターを起こし独自の社会主義による軍政を敷いた。

■しかしその極端な鎖国政策で国力は衰え、88年に国民による民主化運動が起きた。
そのさなかにイギリスから帰国したのがアウン・サンの娘アウン・サン・スー・チーだった。そして彼女をリーダーにした国民民主連盟(NLD)が結成される。

ネ・ウィン政権は民主化デモによって崩壊するが、国軍がクーデターを起こして国家法秩序回復評議会(SLORC)政権を樹立した。
後にSLORCは国家平和開発評議会(SPDC)に改組。
89年には独自の社会主義から市場経済へと移行し、国名もミャンマーに変更した。

■90年の総選挙ではアウン・サン・スー・チー率いるNLDが圧勝。しかし軍事政権はこの結果を認めず政権移譲を行わなかった。
その後現在に至るまで、アウン・サン・スー・チーは3度も自宅軟禁措置を受けている。
また100ほどもある少数民族の存在や隣国タイとの関係が、政情をさらに複雑なものにしているのである。




      長井さんについて報じるニュース映像









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