激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
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 デモクラシー
2006年11月22日 (水) | 編集 |
  


■今月は(も)体調を崩している上に、相変わらずの旅館業の忙しさにかまけて、みごとなほどに(^^;;更新していない。
これまでたくさんのコメントやTBをいただいているのに、まったくと言ってよいほどお返事していない。
申し訳ございません。ごめんなさい(-人-)




■さて、まるで「鵺(ぬえ)」が日本中を跋扈しているかのような昨今、
ふと民主主義について考えてみる。

かつて政治学ゼミで教授は言った。
「日本で言われている民主主義は、デモクラシーではない。これは誤訳である」と。


■デモクラシーの語源は、ギリシア語の「デーモクラティア」である。
「デーモス」は民衆。つまり、民衆による支配・統治のことだ。

そしてクロムウェル時代のラディカル・ピュ―リタリズムが、今日のデモクラシーの源流となった。


■しかるに、今の日本に果たして民主主義(デモクラシー)はあるか?
おととい、BBC製作のドキュメンタリー「プーチンの宮殿」(日本題は忘れた)を見た。
プーチンのメディア戦略についての内容だったのだが、プーチン流の「制限つき民主主義」の方が、ある意味、今の日本よりもオープンで自由なのには考えさせられた。



では、デモクラシーの理念とは何か?


 それは、

 「ものごとをラディカルに、基本から掘り起こすこと」である。






写真は江の島水族館で写したアカクラゲ。触手には毒がある。
白土三平のマンガ『カムイ外伝』には、「ハナフイ」の名でよく登場する。
アカクラゲを乾燥させた粉(ハナフイ)をまくと、くしゃみが止まらなくなるので、忍びが闘いの武器として用いたのだそうだ。




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 教育基本法改悪案を自公が単独採決 
2006年11月15日 (水) | 編集 |
■日本中が松坂投手の交渉権獲得球団を巡ってヒートアップしている最中、自公与党は本日夕方、衆院同法特別委員会で野党欠席のまま、教育基本法改定案を、卑怯にも原案通り強行可決した。

いやしくも建前上は「民主国家」を標榜しておきながら、数の力で強行採決するなどもっての外である。これでは北朝鮮、あるいはかつてのスターリン政権と同等の一党独裁国家と見なされても仕方がない。



■JANJANの11月3日の記事で、<教基法「改正」でどうなる?~参議院会館で反対の集い>というのがある。

    http://www.janjan.jp/government/0611/0611023926/1.php


11月1日に参議院会館で、教育基本法「改定」市民連絡会主催による「教育基本法反対院内集会」が開催された。
早稲田大学教授・西原博史氏、参議院議員・井上哲士氏、精神科医・なだいなだ氏の3名が発言した。


     

    左:西原博史氏  右:なだいなだ氏 (写真はJANJANより)



■先週から風邪をひいて(インフルエンザっぽい)、病院の薬を飲んでようやく少し体調が回復し始めたところだ。
またまた義母の在宅介護も重なり、心身共にグロッキー状態になった。
おまけに、安倍政権のこの暴挙だ。

なだいなださんとは、例の「反戦落書き」の件で意気投合したいきさつがある。
他の文化人もなださんの心意気と実行力をぜひ見習ってほしいものだ。


さあて、真の民主国家を目指してがんばりまっしょい!






 漫画家はらたいらさん死去
2006年11月10日 (金) | 編集 |

■東京新聞によると、本日10日午後零時7分、はらたいらさんが肝不全のため埼玉県富士見市の病院で死去したそうだ。
享年63歳。

今から3年前、はらさんが60歳の時に、東京文京区の自宅に取材に行った。
自宅は小石川の播磨坂近くのマンションで、ちょうど播磨坂の桜並木が満開で、夢のような気分にひたったものだ。
はらさんも、毎年この桜を楽しみにしていると語っていた。
昔この地に松平播磨守(水戸藩)の上屋敷があったことから、播磨坂と呼ばれるようになったという。




■はらさんといえば、漫画家よりも「クイズダービー」の回答者として有名で、昔のテレビを観たことがない10代20代の若者たちでさえ、「はらたいらに3000点」などと訳知り顔で言う。
自宅ドアの前には読み終えた新聞束が置いてあって、当時もそうした新聞記事などから知識を得ていたそうだ。


高知県出身。
漫画家で、特にこの人と決めた先人はいないと話してくれた。
しばらく前から男性の更年期障害に悩み、この時もちょっと元気がないかなと感じた。同郷の奥さんが元気で明るく、はらさんをしっかり支えているという印象だった。


■左上の本と同じ女の子を色紙に描いてくれた。
右手に花を持ち、蝶がヒラヒラ舞っているかわいいマンガだ。
フロントに飾ってあるその色紙を見て、若いお客たちは口々に、
はらたいらさんに3000点!」と笑う。

たぶんこれからも、この色紙を見るたびに、同じ言葉が発せられていくのだろう。

心からご冥福を…。






 バカ男たちに猫パンチ!
2006年11月06日 (月) | 編集 |

■読売新聞によると、11月5日 静岡県熱海市で開かれた自民党東京都連の勉強会で、下村博文官房副長官保育園の待機児童問題について、「(特にゼロ歳児保育に)税金投入するなら、(母親は)無理に働かなくても、家庭でしっかり子育てをやってもらえるようにシフトしていくことが望ましい」と言ったそうだ。

■またしても繰り返される「女は家庭に」コールだ。
予算がないから、幼児は家庭で面倒みろ、年寄りも家庭で面倒みろときたもんだ。
そして浮いた金で米国に貢いで、役に立たない武器をしこたま買い込み、愛国教育を子供たちに叩き込んで、アメリカの盾になる忠実な兵隊たちを作り上げようとの浅はかな魂胆なのだ。



女たちよ、もういい加減、だまされるのは止めよう!


■上の挿絵は、ギリシアの喜劇、アリストパネースの『女の平和』に添えられたオードリー・ビアズレーのイラスト。

古代ギリシア。
ペロポネソス戦争を終わらすことのできない男たちに愛想をつかしたアテナイとスパルタの女たちは、和議を結ぶまでは男と床を共にしないとセックス・ストライキを行って、ついに平和を実現させるというお話である。


       女や子供、年寄りがひどい目に遭う
     こんな日本社会に
     パンチと蹴りを入れようじゃないか!



結婚しない、子供は産まない、育児放棄、職場放棄、家事はしない、年寄りの世話もしてたまるか、ってね!


そうすりゃ、少しは世の中もよくなっていくこと、間違いない!






 「美しい日本」に住む私たち
2006年11月04日 (土) | 編集 |



■昨日11月3日は文化の日。
1946年の同日に日本国憲法が公布された。
そしてこれを記念して、新憲法の理念である「自由と平和」を基礎に文化を発展させようと、国民の祝日として制定されたのだ。

自由と平和と文化

60年の歳月を経て、今の日本に果たしてこれらの理念は残っているだろうか。
憲法の存在自体も、もはや風前の灯だ。



■と、ここまで書いて忙しさでガクリ(ノ_-;)
3日続きの連休は、旅館業には大忙し。
特に本日は宴会が2つも入って、私の体力の方が風前の灯である。


■さて何が言いたかったかというと、
11月3日は手塚治虫の生まれた日でもあるのだ。

文化の日は、その昔は「明治節」という明治天皇の誕生日の祝日であって、この明治の治から、名前を「おさむ」とつけたわけなのだ。治虫はもちろんペンネームだが。



■で、上のビッグな絵はその手塚の
『陽だまりの樹』第3巻の1コマだ。
第3巻が見当たらないので(^^;; 
荷宮和子『手塚漫画のここちよさ ―ヅカファン流手塚論―』の中から流用した。
コマの周囲が額縁模様になっているのはそのためだ。

『陽だまりの樹』は医師である手塚の家系のルーツを描いた作品で、幕末から明治が舞台になっている。
1856年、主人公の伊武谷万二郎は、下田にやってきたアメリカの使節、タウンゼント・ハリス領事と通訳のヘンリー・ヒュースケンの警護を命じられる。
異人嫌いの万二郎とヒュースケンは互いにいがみ合いながらも、次第に心を打ち溶け合っていく。
上のコマは、下田の農村を歩きながら、ヒュースケンが日本と日本人の感想を万二郎に言っているシーンである。


■手塚マンガの批評(というよりマンガ全体の批評や評論)は、なかなかこれと思えるものがなくて長らく不満に思っていたが、やがて夏目房ノ介が現われ、やっと絵とセリフとコマを的確に論じられる時代に入った。
手塚に関する主な本はほとんど読んでいるが、荷宮のものはセリフに特化して論じたものなので、最初は物足りなく感じていたが、次第にその内容の深みに惹かれていった。

上記のセリフに関して書かれた文章を一部転記してみよう。


「この美しい自然豊かな山野に囲まれながら… なぜ、こうも下品な人間が生まれるんだろう?」  

幕末に限らず、日本の過去について勉強していくと、あるわだかまりが生まれてくる。そのわだかまりの正体を、手塚がわかりやすい言葉で表してくれたのがこの台詞である。(略)日本の男達の持ち出す話題や行動に、どうしてもなじめないヒュースケンが、万二郎にぐちった台詞がこれである。
(略)手塚自身が、日本の人間、すなわち「日本人の男」に感じていた不信感を、外国人というキャラクターの口を使って語らせたのではないのか。私には、ここにこそ手塚の本音があるように思える。
日本の社会が女にとって住みにくい理由とは、実は「男尊女卑」という女性差別が存在するからではなく、単に男が下品だから、なのかもしれない。(略)






 平和会談
2006年11月03日 (金) | 編集 |



    三頭会談。
    まさしく猫3匹(頭) えへへ(f^^)

    左:茶々(ちゃちゃ) 真ん中:お隣りの飼い猫と思われるチビ  右:寧々(ねね)  


   外猫さんたちは、人間の社会と違って、程よい距離を保ちながら、
   平和会談にいそしんでいます。







 私たちの暮らしを破壊しているのは誰か
2006年11月02日 (木) | 編集 |
       本日のチェック本。


           


左:内橋克人『悪夢のサイクル ネオリベラリズム循環』 文芸春秋
右:ジェレミー・レゲット『ピーク・オイル・パニック 迫る石油危機と代替エネルギーの可能性』
   作品社



■最近注目していた本が週刊誌で紹介されていた。


内橋克人『悪夢のサイクル ネオリベラリズム循環』

(1)『週刊文春』11月9日号  書評:経済学者・宇沢弘文
書評の要約…日本の経済社会はもともとリベラリズム的性向を持ち比較的安定していたが、いつの間にか経済的・社会的格差が広がって魅力のない国になった。
この流れは世界各国に共通している。
「ネオリベラリズム循環」とは新潟大・佐野誠教授が80年代以降のアルゼンチン経済を分析し、その特徴を名づけたことに由来する。
そしてこの悪夢を生み出した中心的な存在が「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれたアルゼンチンの経済学者たち(シカゴ学派)なのである。
このシカゴ学派の考え方とは市場原理主義で、すなわち「儲けることを人生最大の目的として、倫理的、社会的、人間的な営為を軽んずる生きざまを良しとする考え方である。」
そしてこの市場原理主義は各国に輸出されて、「社会の非倫理化、社会的靭帯の解体、文化の俗悪化、そして人間的関係自体の崩壊をもたらすことになった。」
昨今の福井日銀総裁の破廉恥極まりない発言の根源が、ここにある。


(2)『週刊朝日』11月10日号
シリーズ格差の正体「規制緩和と小選挙区制が日本人を貧乏にした」 
加藤紘一×内橋克人


内橋:(構造改革は)第1に、働く貧困層を大量輩出した。
第2に、もうこの村には住めない、この地域には住めないという「限界過疎地」がどんどん増えている。すでに国土の53%に達しています。
3番目は、所得移転の構造化です。早い話が預金のゼロ金利です。
小泉改革なるものの特徴は、トリックとレトリックの組み合わせだった。

加藤:私はいま党内では若干、変わり者みたいになってますけど、私の話していることは、5年前だったらおもしろくもおかしくもない常識論をしゃべっているだけなんです。

加藤:(日本が目指す社会は)自然の中で人間が集まって一緒に食事したり、楽しめたりするような社会…。
幸せはカネでは買えないんだ、と。
そして地域に活力をもたらすために必要なのは地方自治体への分権なんです。

内橋:いわゆるフリーコミューン(国家から干渉を受けない基礎自治体)ですね。
ぜひ、日本で実験的経済社会モデルを打ち出していただきたい。
命とコモンズ(共有地)を守る。それこそは市場原理の外になければならない。



ジェレミー・レゲット
  『ピーク・オイル・パニック 迫る石油危機と代替エネルギーの可能性』


『週刊文春』11月9日号  書評:フランス文学者・鹿島茂


これに対する私の感想
石油資源の枯渇についてはかなり早いうちから喧伝されていて、20世紀中には危うくなるのでは…とブルーな気分になったものだが、その後、枯渇なんてウソさみたいな論が出てきて、一体どうなっているのかわからなくなったのが本音だ。
ピーク・オイル説はやっぱり枯渇するよ、それも2010年頃には石油生産のピークが来るんだぞという悲観論で、またまたブルーな気持ちになってしまった。

だけど一方では、(・_・?)という思いもある。
ロシアの石油はどうよ、そして北朝鮮の地下にもたくさんあるじゃん。
ということは、ピーク・オイル説もやっぱりアメリカの謀略なのかい?…と溜め息が出てしまうのだ。





 自公独裁を正さない限り「いじめ」問題はなくならない
2006年11月01日 (水) | 編集 |
■まさに「郵政民営化」のときと同じである。
マスメディアは、よってたかって「いじめ」「自殺」「必修科目の未履修」の話題を、朝から晩まで大騒ぎで垂れ流している。
ようするに学校が悪い、教師が悪いといった結論で、あの陰気顔の新文部科学大臣は、「未履修については文科省には責任はない。校長が教育委員会に嘘をついていたのが悪い。都道府県に教育権を委譲したのが間違いだった」なんて内容の文言を、いけしゃあしゃあと吐いていた。

■騙されてはいけない!
こういう教育状況を作り出してきたのは、当の国であり、政府与党なのだから。それと経済界とマスメディアも同罪だ。


この時期に「いじめ」「自殺」を大々的に取り上げ、ことさらに煽り立てるのも、「未履修」をあえてタイミングよくクローズアップして問題化させているのも、すべて「教育基本法改悪」を合法化するための仕掛けなのだ。 


■それにしても、受験に必要のない世界史や日本史が主に未履修だったというのは笑わせる。
どうりでごく簡単な歴史認識すらない国民が増えているはずだ。
つれあいのタクロー氏によれば、この未履修問題、受験校でははるか昔から行われていたそうだから、あきれてしまう。 


■さて、この国の教育は一体どーなってるの~っていう人には
小熊英二『日本という国』 理論社がお薦め。

中学生以上が対象で、しかもちょっと難しい漢字にはカナが振ってあるので、親子で読める。


帯の文を転記すると―

ぼくらの住んでるこの国は…
これからどうすればいいんだろう?

近代日本のはじまりから、学歴社会の成立、戦後のアメリカやアジアとの関係、そあいて憲法改正から自衛隊の海外派遣まで、いまの日本を考えるうえで欠かせない基礎知識を、ひとつながりの見取り図としてやさしく提示する。

この国に生きるすべての人、必携の書!



■本文は以下のような構成になっている。

  <1>明治の日本
    第1章 なんで学校に行かなくちゃいけないの
    第2章 「侵略される国」から「侵略する国」へ
    第3章 学歴社会ができるまで

  <2>戦後日本の道のりと現代
    第4章 戦争がもたらした惨禍
    第5章 占領改革と憲法
    第6章 アメリカの<家来>になった日本
    第7章 これからの日本は



■で、<1>では福沢諭吉の『学問のすすめ』が導入部分になっている。
原文の後に現代語訳が続いているので、けっこう面白い。
『学問のすすめ』と聞くと、大抵の人は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」って反射的に思い浮かぶ。だけど、その後があるんだな、これが。

<現代語訳>
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといわれる。…しかしいま、広くこの人間世界を見渡してみると、かしこい人もいれば、おろかな人もある。貧しいやつもいて、豊かなやつもいる。貴人もあれば、下人もある。(略)人は生まれながらにして貴賎貧富の別はない。ただ努力して勉強し、物事をよく知る者は貴人となり金持ちになる。無学な者は貧乏人となり下人になるのだ。


さて「義務教育」はCompulsory Educationの訳語で、明治時代にはなんと「脅迫教育」と訳されていたんだそうだ。
この訳のままだった方が納得できるかもね。


■では何のために脅迫までして、明治政府は全国民を教育したのだろうか。
それはずばり、「日本という国」を強くするためだった。

諭吉は、欧米列強との戦争では、支配階級だけでなく一般人民も共に戦うよう教育する必要があると主張したのだ。
また諭吉は、人間社会には2種類の社会しかないと言った。
1つは、支配者のみが智恵を持ち平民は無教養の身分制社会…東洋
2つ目は、一般人も教育を受け自由競争をする経済社会…西洋
しかしこの西洋社会は不平不満がたまるので東洋を侵略するようになる


そして日本は、2の西洋を選んだのだった。

…(諭吉は)西洋文明をはやく吸収した者が「勝ち組」になり、それに遅れたものは「負け組」になって「下人」になると説いたわけだ。
「日本という国」の近代化は、こうして始まった。西洋の文明を吸収し、国内では「学問」をして競争に勝ちぬき、国際的には「侵略される側」から「侵略する側」にまわる。
そのために、国民全員を義務(脅迫)教育によって、勉強させなければならない。だから明治政府はおおくの学校を建て、福沢も慶応義塾をつくった。そうやってできあがった学校制度の流れのはてのなかに、現在のわれわれはいるわけだ。

 


■しかし諭吉はこうも考えた。
「もっとも恐ろしい存在は、貧しくて知恵のある者である」(『貧富智愚の説』より)

つまり一般国民に教育を施すと、智恵がついて貧しい状態に不満を持つ者が出てくる恐れがあると。
そのために明治政府は「教育勅語」などを駆使して、国家や天皇に忠実な国民を作り上げたのである。教科書も国定になって、政府に都合よく作り変えられた歴史教育も行われた。


時代は移り、第二次大戦後の一時期は憲法9条を前面に出した平和教育が推進されたが、「宗主国」アメリカの都合に振り回されて、再び元来た道を戻り始めているこの国である。


いじめの多発は、高度経済成長後の70年前半より、高校全員入学が当たり前になり、ほぼ全員が受験競争に巻き込まれるようになってから顕在化した。
たった30年前からの出来事なのだ。


そして学校に限らず、今の日本の社会のあちこちに「いじめ」や「暴力」が蔓延している。
   
例えばアメリカが無理難題で日本をいじめ、鬱屈した政府が国民をいじめ、疲弊した国民が北朝鮮や韓国、中国に敵対してののしる、という構図が、社会のあちこちに噴出してるってわけだ。      
    
      







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