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激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 「不安」の正体
2006年06月25日 (日) | 編集 |

■昨日書いた酒井隆史『「世間」の膨張…』の内容にも関連するのだが、作家の辺見庸も『不安の世紀から』という著書を出している。

酒井氏が文中で柄谷行人の『倫理21』の「世間」の起源は江戸時代のムラ社会にあるという部分を引用しているように、辺見氏もまた「不安の球根とマスメディアに関する断想」の章で柄谷『日本精神分析再考』から引用している。


この引用部分をさらに簡略すると、日本はもともと「国家と社会の区別が厳密に存在しない」わけで、「逆にいえば、社会に対するものとしての国家も、国家に対するものとしての社会も存在しない。」
ここのところはサッチャーの「社会は存在しない」という言葉と重なるが、ヒトラーが羨ましがった日本のファシズムは、この「国家でも社会でもない協同主義」だった。つまり日本では「あらゆる意志決定(構築)は、『いつのまにかそう成る』(生成)というかたちをとる。」のである。

この柄谷に続く辺見の文の一部を引用する(ややこしいなぁ(^^;;)

この国では、土壌や空気が制度や理念を腐食し、骨抜きにすることがしばしばである。思想や理念を語ることを、誰あろう、空気が冷笑し、土壌があざ笑うのだ。憂鬱のもとも、不安の源泉も、ここにある。(略)
われわれは敗北の因子を予め自らの暗い内面で培養しつつ生きている。敗北のみが最初から約束されている。これも憂鬱のもとであり、そこはかとない不安の苗床なのだ。



■なんだか今の梅雨時期のじめついた中に身を置いて、頭のてっぺんからキノコでも生えてくるような気分になってしまうけれど、最初から敗北してもしょうがないので、もっと前向きにブレークスルーしたいものだ。

で、引用の多かった柄谷行人の
『世界共和国へ ―資本=ネーション=国家を超えて』など。


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