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激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
 魔術的リアリズム
2006年04月01日 (土) | 編集 |

■日々の疲れが澱(おり)のようにたまり、夕刻のフロントでついうたた寝をする。といってもわずか5、6秒の瞬時の眠りに過ぎないのだが。それにしても、春眠暁を覚えずとばかり、飽きるほどぐっすり寝てみたいものだ。

■部屋の一角に「猫タワー」を設置した。さっそく好奇心旺盛な猫たちの場所の取り合いとなった。上の奥がマヨ、その手前の太いシッポがギン、下の段がハナ。猫の進化の系統樹、ないしはヒエラルキーってとこか。ヒルズ族ならぬタワー族(=^・^=) 外猫出身のキキは警戒心が強いのか、タワーの住人になりたがらない。

天井との隙間に固定板をはさんでいるのだが、夕刻マヨとハナが同じ方向に乗ったとたん、その板がはずれて床に落ち、タワーが大きく傾いた。ありゃりゃ、耐震偽装タワー? 猫を乗せたままピサの斜塔状態になったタワーを見て、私しゃ、声をあげて笑ってしまったヨ。

■夜中過ぎ、ベッドに入って寝入るまでのわずかな時間に、ガルシア・マルケスの『エレンディラ』を読んだ。20年も前に同人サークルの読書会用に選んだ古い本。ところどころ鉛筆のラインが引いてある。短編集で、たとえばこんな出だしで始まる。

雨が降りだして三日目、家の中で殺した蟹の山のような死骸の始末に困って、ペラーヨは水びたしの中庭を越え、浜に捨てに出かけた。(『大きな翼のある、ひどく年取った男』)

海の上を静かに漂いながら近づいてくる、とてつもなく大きな黒い漂流物を最初に見つけた子供たちは、ひょっとすると敵の船かもしれないと考えた。しかし、船にしては旗もマストもなかったので、おおかた鯨かなにかだろうと見当をつけた。浜に打ち上げられた漂流物にまつわりついている海藻やクラゲの触手、無数の小魚、ごみ屑などを取り除いてみると、下から水死体が現われた。(『この世でいちばん美しい水死人』)

「文学は人をからかうために作られた最良の道具」と、その著書『百年の孤独』の中の人物に言わしめているガブリエル・ガルシア=マルケスは、1928年に南米のコロンビアの寒村アラカタカに生まれた。後にこの故郷をモデルにした架空の土地マコンドを舞台にして、名作『百年の孤独』を書くことになる。

…と、これは私が同人誌に書いた、ラテンアメリカ文学についての文章の書き出しである。ま、あの頃はエネルギッシュで生意気盛りだったもんだ。

マルケスといえば、魔術的リアリズムだの神話的だの、アーキタイプだのという単語が思い浮かぶ。いわゆる60年代の「ブーム」として、彼を筆頭にラテンアメリカ文学は世界の脚光を浴びたという。同じくかつての自分の文章から少し引用する。

どの国の昔話(物語)にもひとつの定型というものがある。つまり、繰り返しの多用と時間の流れに沿って前へ前へと話が進んでいく前進性が、それらの基本パターンになっていて、マルケスの作品もそうした定型と無縁ではない。物語の語り部たちはたいてい不具者か長寿者で、彼らは共同体がはるか昔に犯した罪の記憶を繰り返し繰り返し、飽くことなく語り続ける。マルケスの作品が神話的な寓意と驚異に満ちていて、儀式とか祭礼(カーニバル)、生け贄(殺人)といったエピソードがさまざまな形をとって語られるのは、彼の選びとったこの物語の定型というスタイルの当然の帰結ではないだろうか。中でも、贖罪の生け贄を屠ることで共同体の失われた秩序を修復する、という供犠のメカニズムが緊迫感とユーモアとで見事に描かれているのが、前述した『予告された殺人の記録』である。そして彼の描写は、ときに美しく官能的で、ときにグロテスクなほどに卑俗的でもある。読者の多様な読み取りにも十分耐え得る、日常的なできごとの断片の膨大な積み重ねで出来上がった、ひとつの完結した小宇宙である。言い換えれば、評論家受けする芸術的で難解なレサマ・リマ等と違って、人々が真に欲していることを正確につかんで描き、あえて大衆性の衣をまとうことを恥じないその作風こそ、彼の人気を支えている大きな理由でもあるのだ。


■今更なぜマルケスか…とわれながら思うけれど、最近の息苦しい閉塞した社会状況の中にあって、ひとときの安らぎとか心のときめきを無意識のうちに乞い求めているせいなのかもしれない。
もう深夜を回って、ようやく最後のお客も到着したのでフロントもおしまい。私の疲労もピークを迎えているから、この続きは、また明日にでも(書けたらの仮定だが(^^;;) ではお休みなさい。

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