激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
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 プチャーチンとヘダ号
2005年11月22日 (火) | 編集 |
■下記の「日本人はなぜロシアが嫌いか(その1)」の中で、下田条約とプチャーチンについて少し触れたが、11月18日付の時事通信に「幕末日本、近代技術、ロシアに学べ=プチャーチン提督の新史料明らかに」という記事があったので引用する。これって、プーチン来日に合わせたニュース(・_・?)

幕末、日露和親条約の締結を目指すロシア皇帝の使節として下田に滞在中、大津波で船を失った同国海軍のプチャーチン提督が、帰国用の代用船の建造支援など幕府の対応ぶりを記した直筆報告書の内容が17日までに明らかになった。
報告書は日本への謝意を示す一方、航海術や軍事といった技術の移転を幕府から要請された点を強調しており、当時の日本が災難に遭ったロシア使節への支援を造船などの近代技術獲得の好機ととらえていたことがうかがえる。


■この記事の内容程度のことは以前から知られてたんだけど…。
『歴史読本』2005年9月号にも、プチャーチン関連の興味深い論考が載っていた。菅田正昭氏の「古代技能神の故地を往く」というもので、古事記と日本書紀の中の「枯野」と呼ばれる船から、伊豆の狩野川や軽野神社を導き出し、八丈島では小舟をカノーと呼び、ここからカノ(狩野)という地名が生じたと推測している。
さて静岡県沼津市にある戸田(へだ)にも、かつて古代の造船技術集団がいたという。岬の先にある諸口神社の境内には戸田造船郷土資料博物館があるが、実はここが近代造船の発祥地なのだそうだ。

「嘉永7年(1854)、ロシアはプチャーチン監督以下500名を乗せた軍艦 ディアナ号(2千トン)を下田港に派遣したが、11月4日の大地震に伴う波で被災し、さらに台風にも遭遇して沈没した。その代船として幕府が山(にらやま)代官江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)(1801~55)を工事監督して建造させたのが2本マスト、全長22メートル、幅7メートルの100ト級のスクーナー船だった。これが設計に55日間、着工後は50日間で完成た「ヘダ号」(プチャーチン命名)である。」


写真は「ヘダ号」の模型。
当時はクリミア戦争が始まっていたので、軍艦を失って心細かったプチャーチンは「ヘダ号」の完成にたいそう喜び、日本もまた近代的な造船技術を習得できたのである。勝海舟はのちに「このロシアの一大不幸はわが国には幸いとなった」と『海軍歴史』の中で書いている。
さらに韮山代官江川英龍は、新選組の近藤勇や土方歳三とも重要なつながりを持った人物であるが、それについては別項で記すことにする。
なお伊豆は湯河原からも近いので、周辺観光の場として紹介した。
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 日本人はなぜロシア人が嫌いか(その1)
2005年11月22日 (火) | 編集 |

露大統領:天皇陛下と会見 毎日新聞
来日中のロシアのプーチン大統領は22日午前、皇居・宮殿「竹の間」で天皇陛下と会見した。プーチン大統領と天皇陛下の会見は00年9月の大統領公式訪問以来2度目。
宮内庁によると、通訳を介して約25分行われた会見では、天皇陛下が「今年は日露修好150周年でいろんな交流が盛んになっていることを喜ばしく思います」と話すと、大統領は「(今回の訪問に)日本の経済界も大変な関心を示してくれ有益な意見交換ができました」と答えた。また、大統領は黒田清子さんのためにお祝いの置物を持参し、「結婚の様子はモスクワでテレビで見ました」と話した。

■さて「今年は日露修好150周年」とは、150年前の1855年2月7日(旧暦・安政元年12月21日)に締結された「日本魯西亜国通好条約」、通称下田条約のことを指す。ロシア側は遣日大使プチャーチン、日本側は川路聖謨(としあきら)。下田条約では、日露間の国境は択捉(えとろふ)島と得撫(うるっぷ)島との間とし、樺太(からふと)はこれまで通り国境を設けず日露混住の地とした。
この条約締結をさかのぼる11月4日、安政の大地震が下田一帯も襲い、停泊していたプチャーチンの軍艦ディアナ号が大津波で大破し沈没した。ロシア人たちは町の負傷者を助けて治療し、日本側は新しい船の建造に力を貸した。このとき初めて日本は西洋式の造船技術を学んだのである。

■下田条約を結んだこの2月7日を日本では「北方領土の日」としているように、アメリカなどの欧米諸国と違って、ロシアに対する日本人の感情は良好なものとは言いがたい。なぜ日本人はロシアやロシア人にあまりよい感情を抱けないのか。かつて政治学者の故・志水速雄氏(1985年没)のソ連国家論という授業を受けたことがあるが、志水氏の著作の中に『日本人はなぜソ連が嫌いか』という本がある。ソ連崩壊後のロシアともさほど関係は変わっていないので、古い記憶をもとに、日本人の対ロ感情をさぐってみたい。
ちなみに志水速雄氏は右翼思想家に分類されているようだが、元「社学同」で、60年安保闘争時に官憲に逮捕された経験を持つ。授業は旧ソ連の地理や歴史から始まる興味深いもので、近い将来ソ連は崩壊し東ドイツも統一されるという「収斂理論」の持ち主だった。実際、ほどなくその言の通りになったわけだが。志水氏は教室のドアが風でパタンパタンと開くのを気にして何回も自分で閉めに行く神経質な面もあったが、卒業後小さな出版社に入ったときエッセイを頼んだら快く引き受けてくれた。そのエッセイの中で、趣味はテレビの料理番組を観ることとあって、気難しいイメージとは裏腹に庶民的で気さくな一面を垣間見た気がしたものだ。

■およそ西洋と東洋のつき合いは、お互い表玄関からのつき合いであった。ところが日本人と朝鮮人そしてロシア人の場合は、表玄関というより、互いに裏口を向け合った仲の悪い家のつき合いに似ている、と志水氏は言う。ロシア人と日本人がつき合い始めて約200年の間、両者が互いに見せ合った顔の多くは漂流民、流民、兵士、捕虜、囚人、犯罪者、漁民、農民であったからだ。そして第二次大戦で日本がポツダム宣言受諾「後」に、満州や樺太、北海道で行ったソ連兵の略奪と暴行は、日本人の記憶に決定的な反ソ感情を刻みつけた。だが大戦前後にソ連が奪ったのは日本の領土の一部だけではない。日本を含めフィンランド、バルト三国、ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ルーマニア、外モンゴルからも合計67万平方キロの領土を奪った。これはイギリス、イタリア、ギリシャ3国を合わせた面積に匹敵する。2度の大戦の経験で大方の国は固有の領土の併合という古い帝国主義的要求を回避するようになったが、ソ連だけはこの考えを捨てなかったのだ。

■では日本人とロシア人はいつ頃遭遇したのだろうか。17世紀ロシアではボロトニコフの乱とラージンの乱というコサック農民の反乱が起き、これをきっかけに農民やコサックが自由と土地を求めてシベリア方面に東進した。彼らはさらにカムチャツカ半島やアナドゥイリ方面に進んだが、日本人の北上は両者が出会うまでには至っていなかった。やがてロシア人は南下を始める。
その頃、モーリス・ベニョフスキというハンガリー人がいた。エカテリーナ女帝のポーランド干渉に際して、彼はポーランド側について戦い、敗北してカムチャツカに流された。やがてベニョフスキは反乱を起こし、ロシア船聖ピョートル号を乗っ取ってカムチャツカを脱出、千島沿いに南下して四国沖に現われた。日本は江戸時代中期、田沼意次の時代である。このとき初めて、日本人はロシア人と出会ったのだ。ベニョフスキ一行は日本人と接触しながら奄美大島まで進み、ここから長崎のオランダ商館長あてに6通の手紙を書いた。そしてその中の1通が、ロシアの南下を警告したこのような内容だったのだ。
―今年ロシアのガリョット船2隻とフレガット船1隻がカムチャツカを出港し日本沿岸を巡航する。ロシア人は来年北海道を攻撃するための資料を集め終わった。千島列島に要塞が建設され、弾薬や大砲、倉庫なども整備されている。―
この手紙はオランダ語に翻訳されて日本人に渡り、当然のことながら大騒ぎになった。ところが、なんとこの手紙の内容は嘘だったのだ。なぜベニョフスキがオランダ人に嘘の手紙を書いたのか、その動機はわかっていない。おまけに嘘の手紙はオランダ人を通して日本人に広まるまで、いくつもの事実誤認を加えていった。フォン・ベニョフスキの署名をオランダ人は「ファン・ベンゴロ」と誤読し、さらにそれを日本人が「はんべんごろう」と伝えた。またロシアから脱走したハンガリー人が、ロシア人スパイに変わってしまった。
「ここに至ってロシアは巨大な脅威となって日本を圧している。この圧迫感こそ、これ以後日本人の対露意識の根底を流れるものである。それは時には流れの表面に現われ、時には底のほうに沈む。しかし二百年間途切れることなく今日まで続いている」と志水氏は述べている。
 

 「暴君はいつか打倒される」
2005年11月20日 (日) | 編集 |

日本に続いて韓国を訪問したブッシュ大統領は、19日にソウル南郊にある烏山米軍基地で、実際の国名は避けたものの明らかに北朝鮮を指して、こう演説したそうだ。
「暴君や暴君気取りの連中は、自由な人々は弱く退廃していると言うが、いつか自由な人々によって打ち負かされる」
ええっ! 「暴君や暴君気取りの連中」って、あんたやあんたの一の子分のコイズミ首相のことじゃないの!? 
そりゃあ、国名は明かせないよね。恥ずかしくって。お互い、同じ穴のなんとかとか、目くそ鼻くそを笑うって同士だもんね。

 世界の多極化と「反米同盟」
2005年11月19日 (土) | 編集 |
■年末に近づくと団体客が増えてくる。昨日はK大の学生が15人。帰ってから大学生だとわかったのだが、部屋で大量の酒盛りをしたらしく、その惨状たるや、近年にないすさまじさだったと部屋掃除のパートさんたちにブースカ文句を言われてしまった。部屋を汚したりグラスを割ったりするのは仕方がないが、それなら帰り際に一言「すみません」くらい言うのが最低限のマナーではないのか。おかげで客室セット(私の仕事)に大幅に時間を取ってしまい、まだ終わらないうちに本日の団体客が何組も次々到着し、少々パニくってしまった。
は~疲れた~(T^T)


■さて昨日はロシアの石油戦略について少し書いたが、田中宇氏のメルマガにも興味深い記事が載っていた。
今ブッシュ大統領が東アジアを巡っているが、それに先立つ4~7日は中南米諸国を訪問した。日本・韓国では歓迎(少なくても日本は)されたブッシュも中南米での人気はさんざんで、行く先々で反米デモに迎えられたそうだ。ブッシュとは好対照に人気を集めたのがベネズエラのチャベス大統領。4日にブッシュが訪問した際は、2万人(5万人説も)規模の反米集会を開き、「ブッシュはファシストで、テロリストだ」などと演説し、中南米中にテレビ中継された。
田中氏は「チャベスの言動を見ていると、彼が単なる『反米左翼』ではなく、アメリカに敵視され、政権を潰されかかっている国々に対し、自国の石油収入の一部を使って支援し、世界的な『反米同盟』を作る戦略を持っていると感じられる」と書いている。
そう、キーワードはここでも「石油」である。ベネズエラは、石油生産量全体の3分の2をアメリカに輸出しているのだ。アメリカ政府は9.11を境に、石油の輸入をサウジからベネズエラに変えたが、その後ベネズエラとの関係悪化でガソリン価格が高騰→国民生活を直撃→ブッシュの支持率低下となったわけである。そこでこれ以上ベネズエラとの関係悪化を招きたくないブッシュは、チャベスの反米扇動に対し強く批判できない。田中氏曰く「アメリカの『単独主義』は、中国、ロシアといった『非米同盟』の提携関係を生み出し、世界を多極化しているが、チャベスは非米同盟と連携する反米同盟を作ることで、多極化の動きを強化している」
田中氏説では、アメリカの中枢に世界の多極化をこっそり支援する人々(ライス国務長官ら)がいるということだが、相も変わらずアメリカにひたすら追従するだけのコイズミ日本は、気がついたら反米包囲網の中に自分だけ追い込まれていた、なんてことになる日もそう遠くないんじゃないかと思うと、まったく暗澹たる気分になってくるのだ。





 プーチン vs  ブッシュwithコイズミ  
2005年11月18日 (金) | 編集 |
■昨日はボジョレー・ヌーヴォーの解禁日。
夜、仕事が終わってから、久しぶりにヌーヴォーを飲んだ。ジミー大西がラベルを描いたワインで、新酒としてはしっかりした深い味わいを持った美酒だった。
ちょうどバブル期にボジョレー・ヌーヴォーが話題になった時、同人誌の集まりの席で初めて飲んだのだが、若すぎてコクがないな(当時の私みたいね)などと生意気にも思って、それ以来再び飲むことはなかった。今年はしかし出来がよいとのことで、かなり満足できる味だった(と思う)。

■さて、ロシアのプーチン大統領が14日に改造人事を行なった。
このところのなあなあ政権にうんざりしていたプーチンは、権力組織の活性化を図るため、メドベージェフ大統領府長官(40)を第1副首相に、イワノフ国防相(52)を副首相兼務に任命したのだ。


ドミトリー・メドベージェフ
1965年5月14日レニングラード生まれ。当時、人民協議会議長補佐官だったプーチンの同僚(後に部下)として働いた。現在は政府系天然ガス企業のガスプロム(世界最大手)の取締会副会長を兼任している。だが公の場にはあまり姿を現していない人物でもあり、西側と連携して経済市場化を強化するのではと見られている。
後任の大統領府長官には、原油の産地であるシベリア・チュメニ州のソビャニン州知事(47)が任命された。


セルゲイ・イワノフ
1953年1月31日レニングラード生まれ。大学卒業後にKGBに勤務するという、プーチンと似た経歴をたどる。そのプーチンとは兄弟のような親友であり、実質ナンバー2の側近でもある。ちょうど新選組の近藤局長と土方副長みたいな関係かな 
プーチンは2008年には退任する予定なので、この2人を競わせて手腕を見る腹積もりだ。そしてどちらを首相に選ぶかによって、ポスト・プーチンが明らかになる。下馬評ではイワノフ有利だが、KGB人脈によらない後継者選びを示唆する見方もある。
反対に、北朝鮮の金正日総書記との親交で知られる極東連邦管区のプリコフスキー大統領全権代表と、沿ボルガ連邦管区のキリエンコ大統領全権代表が解任された。

■さてさて天然ガスだの原油だのシベリアだのという単語が上記に出てきたが、今のロシアはイラク戦争で破産寸前のアメリカとは逆に、なんと財政も黒字続きで、オイルマネーで潤う金持ち国家になっているのだ。
皮肉なことにブッシュのアメリカがアラブ・イスラムに戦争を仕掛ければ仕掛けるほど、原油価格が高騰してロシアが儲かることになるからだ。そして莫大な埋蔵量の原油が眠っている東シベリアを開発すれば、更なる経済成長が見込まれる。今回のはこの石油・天然ガス輸出強化を目的とした戦略人事なのだ。したがって日本の国益を考えるのなら、ロシアとの友好をもっともっと図るべきではないのか。もし時代遅れの偏見をいつまでも持ち続ければ、アメリカと一緒の泥舟に取り残され、やがては沈んでいく運命に見舞われることは明らかである。


■でもって、紀宮の結婚式のどさくさに(故意で)まぎれて、なんだかわけのわからないうちに終わってしまったのが日米首脳会談だ。
首脳会談前日、金閣寺を訪れたブッシュは「ビューティフル、サンキュー」と感激。ちょうどこのシーンを映したテレビのニュースをチラッと観たのだが、金閣寺と紅葉を喜んだ盟友ブッシュに対してコイズミ首相は「きれいだね。今日は天気で」と日本語で言って、そのあとモソモソと身振りを交えながら、「サン…」とか「サン・ライジング」「ジャパン」と、これ以上短くできないくらいのワン・フレーズを連発してひとり悦に入り、世界中に「B層」首相の姿をさらしたのだ。ブッシュは隣りで苦笑いし、日本国民は歯噛みした。
なーにが「日出ずる国ニッポン」じゃ! 沈みゆくばかりじゃないか。

■東京新聞による日米首脳会見の骨子は次のとおり
小泉純一郎首相は「過去も現在も将来も日米関係の重要さは変わらない」と日米同盟の重要性を強調
首相はイラク支援での自衛隊派遣延長を事実上表明
首相は在日米軍再編の中間報告実現に最大限努力すると強調、ブッシュ米大統領は首相のリーダーシップに期待感を表明
大統領は日本の国連安保理常任理事国入りを支持する考えを表明
大統領は北朝鮮による拉致問題について懸念を共有していると強調
大統領は米国産牛肉輸入の早期再開を要請
大統領は小泉首相の構造改革路線を評価、任期中は支持する考えを強調





 プーチンでェ~す!
2005年11月17日 (木) | 編集 |

ウラジーミル・プーチン
ロシア連邦大統領
1952年10月7日、レニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)生まれ。
レニングラード大学卒業後、国家安全委員会(KGB)外国諜報部に勤務。その後サンクト・ペテルブルグ市第一副市長、大統領府副長官、大統領府第一副長官、旧KGBの連邦保安局(FSB)長官などを務め、1999年8月にステパシン首相解任に伴って首相に就任。エリツィンが大統領の辞任により大統領代行に、そして2000年3月26日の選挙で大統領に選ばれた。格闘技が得意で、サンボと柔道の師範でもある。また身長は公表されていない。



ウラジーミル・プーチン(通称プーチン)
黒猫 オス
推定2003年5月7日(獣医による)、私の実家千葉県F市生まれ。
初夏に庭(密林状態)で発見される。なぜ庭に出没したのかは不明。両親兄弟姉妹共に不明。
同じく野良猫の野中広務のいじめにあっていたので、エサとおもちゃで根気よく慣らし、ついに飼い猫にする。可愛らしい声とは裏腹に、近くで見るとかなりの不細工顔(だまされた!)
宮本武蔵の髷のような不思議なしっぽが特徴。車のハンドルのような左右の動きをする。性格は温厚で、極端な甘ったれ。人間の子供好き。
先輩猫でお局のミラ様に脅されて、2回の大脱走のあとにいずれも捕獲。去勢後も家族の服へのおしっこスプレーを続け嫌がられている。体重は秘密。現在はクマのように巨大化しているが、家中の人気者。



追加情報
F市在住の日高さまによると、映画「ハリーポッターと秘密の部屋」に出てくる「屋敷しもべ妖精ドビー」がプーチン大統領そっくりで、「故意に似せたな。訴えてやる!」とかなんとかの騒ぎだったそうな。ちなみにロシア版ハリポタのタイトルは「「アーニャほにゃららとコントラバス」とか。ブッシュのそっくりさんでも出てくるのだろうか。


 昔は詩など書いていたんだけど…
2005年11月17日 (木) | 編集 |
閉じた世界


吹きすさぶ風よ
ぼくはおまえを愛する
ためらうことも媚びることもせず
猛々しいまでの無遠慮さでもって
ぼくの歩みをはばみ
遥か天の高みまで 息もつかずに駆け抜けていく
遠く小さく 誰かがとぎれとぎれに叫んでいる
聴け 世界は閉ざされた牢獄だ
見せかけの自由と悦楽と悔恨という牢格子で
幾重にも閉ざされた 出口を持たないシステムなのだと
そうだ
頬をなぶる風よ
冷ややかな眼差しでもって眺めるがいい
ぼくはとっくの昔に翼を失い
孤独の鎖につながれながら
終日 灰色によどんだ強固なそのシステムの中心にうずくまっている
空の深い蒼さも 峰々に降りそそぐ朝の光の金色のきらめきも
もはや再び目にすることはないだろう
そして
苦渋に満ちたまどろみの中で
ぼくは ただひたすら夢見る
この手も胸も すっかり血のぬくもりを失って
透明で冷涼な夜の大気と同化するとき
新しく生え変わった大きな白い翼でもって
おまえを 強く強く抱きしめる夢を
すると
突如おとずれる静寂
その瞬間 ぼくは実体を失って黒い影となり
両のまぶたに
音をたてて
「永遠」の二文字が刻印されたのだった



音楽入りはこちら





 向山窯で茶碗を作る
2005年11月16日 (水) | 編集 |

■「湯河原温泉おかみの会」で、向山窯(こうざんがま)で体験陶芸をした。険しい山道を登ったところにある工房なので、湯河原駅近くの蕎麦屋「たかはし」で昼食を取ってから、タクシー3台で向かった。出席者は14名。まだまだ湯河原の地理にうとい私にとって、こうしてたまに参加する「おかみの会」は、よき交流と体験の場でもあるのだ。


■工房の主催者は、地元湯河原出身の陶芸家・鈴木秀男氏。
鈴木氏の説明によると、物に日に照らされる面と影の面ができるように、表と裏で違いがあることが伝統的な日本の焼き物の特徴だという。
これには2種類あって、
①自然釉(ゆう)…薪の灰が自然にかかって釉薬となり色がついたもの。
②灰釉…人工的に木の灰をかけておいて焼いたもの。

向山窯では、1回に15トンもの薪を燃やすそうだ。特に赤松の薪がよい。窯の内部の温度は1,300度にもなる。自然釉の作品を作るには灰がよくかかる前列に並べる必要があるが、薪を投げ入れて燃やすため、前の方の作品は片っ端から壊れてしまうという悩みがある。この点について鈴木氏は「自然釉でいいものを作りたいが、成功率は低い。だから食うためには、人工的な作りにならざるを得ないですね」と話す。


■体験陶芸ではもちろん灰釉の作品を作るわけだが、この灰釉は木の灰の分子と土の分子が化合して色がでるそうだ。また体験では湯河原の土を半分程度混ぜる(いつもは8割)。湯河原の土は鉄分が多く、これに湯河原名産のみかんの木の灰をかけると、茶色の地に緑という独特の風合いを持った「湯河原焼き」ができる。みかんの代わりに竹やススキの灰をかけると、また違った色合いになる。写真は、みかん(緑)とススキ(白)の灰をかけた作品。


■今回は湯飲み茶碗に挑戦。いやあ難しい。当初思い描いていた形通りにはならず、他の人たちも「形になればいい」「水漏れしなければいい」「大きくなってしまったので花瓶に変更」「花瓶にもならなかったら植木鉢。それもダメならお皿」と、だんだん妥協が大きくなるばかり。それでも少し手を入れてもらって、全員なんとか完成した。

左の写真は私の作品(^^;;
さてこの後の作業だが、ひびが入って割れないように、ビニールをかぶせて時間をかけゆっくり乾かす。その間1ヵ月。そして800度の温度で素焼きし、木の灰を水でといてドロドロにしたものを上からかける。それから5~7昼夜焼き、10~15日かけてさましていく。だから作品が完成するのは3ヶ月後の来年2月中旬になるという。すべて天然の素材を使って仕上げるので、こうした長い時間を要するのである。それにしても気の長い話だ。

■鈴木氏は語る。
日本の器というのは「育つ器」です。使っていくうちにだんだん汚れが染み込んでゆき、土の色になっていく。ものは皆、最後には土に還ります。つまり生きているというのは、土に還る支度をしていることなんですね。私たちはだから、手間と暇とお金をかけて汚してゆくわけです。現在日常で使っているのは、西欧の汚れない器です。たとえばマイセンは17歳くらいの永遠の少女。それと異なり、日本の器というのは「汚れる器」であり、「相手がいることを認識した器」なのです。
以前「沓茶碗」を観たことがあって、それが歪んで真っ黒で、内心ええっと思ったんですが、いったん器に抹茶を入れると、もう鳥肌が立つほど美しく変身したんですね。それは抹茶が美しく見えるようにと、器が夢中で祈っているからで、この相手を生かすこと―相手をどれだけ美しくできるかが日本の器なのです。
かつて私たちは互いに支えあい、共に調和しながら生きてきました。ところが今はそうした文化も生活も考え方もすべて欧米風に変わってしまいました。今回こうして伝統的な器を作ったのをきっかけに、日本本来の美しい心や所作について思いを馳せてもらえれば幸いです。

 接客の難しさ
2005年11月11日 (金) | 編集 |
気難しい団体客(といってもその中のごく一部のお客だが)の連泊、予期せぬ年配者、宴会、貸し切り風呂、カラオケ、飛び込み客、24時過ぎのチェックイン…きょうはそんなことすべてが重なって、疲労度も高い。おとといは義母の在宅介護もして、ようやくそのときの洗濯物などを片付け終わったところである。おまけにきょうはお掃除のパートさん2人が急用で休んだので、多少やっつけ仕事になった箇所もあって、そうした小さなミスの後始末も疲労の要因になっている。
接客は難しい。いきなり旅館の女将になった私にとっては、なおさら難しい。
そこで自戒もこめて、以前取材したホテルマンの接客のアドバイスを記してみたい。


  

東京で最もおしゃれな街・渋谷にそびえる超高層のセルリアンタワー東急ホテルは、文化の発信基地をテーマに能楽堂やジャズクラブも備えた未来型のホテルである。“アットホーム的なお客様に安心していただけるホテル”を自らのコンセプトとする生え抜きのホテルマン・斎藤基治さんに、一流のホテルマンからの視点でお年寄りへの接客のアドバイスを語っていただいた。

1.接客の基本について
接客の基本は“笑顔”であり、その笑顔を自然に出すためにはまず自分の中に相手への思いやりがあって、さらに来てくださってありがとうという心からの感謝の気持ちがあれば、素敵な笑顔とお声かけができると思います。研修では「ウィスキー」と言って笑顔の練習をしました。現在も現場に出る前に鏡に向かって笑顔を作ったり、がんばるぞの心構えを持つようにしています。

2.接客でのトラブルとその対処法
たとえば予約がない、スタッフがヘルプしてくれない、スタッフの態度が悪いなど細かいトラブルが多いですね。ミスは仕方がないが、そのミスに対するスタッフの対応が悪いといった…。しかしホテル側にとっては苦情を言ってくださるお客様の方がありがたい存在なんです。誠心誠意対応すればリピーターになってもらえますので。外国のお客様の場合は文句ではなく要望が多いので、そういう生きた情報もとても大事ですね。記憶に残るトラブルでは、宅配便での日時指定のお荷物を手配ミスしたことなどがあります。

3.スタッフ教育について
教育というより心構えだと思いますが。ここではどのセクションでも、毎朝必ず朝礼の形で行っています。24時間運営のため、現場ではお客様の情報の細かい引継ぎによってあらゆる事態に臨機応変に対応できるようにしています。他にも大きな声での挨拶の練習や、事例とその対応方法の情報交換も定期的にやっています。老人ホームでも同じだと思いますが、相手の気持ちを推し量るのはとても難しいので、お客様のちょっとした反応をヒントにしつつ今までの経験を生かしながら対応していくことが、ホテルマンとしてもまたホームでも求められていると思います。たとえば咳をしたら「お客様、体調が優れないようなので、よろしければお部屋に毛布をお持ちしましょうか」などと、1歩2歩先を考えてサービスを提供することを心がけているわけで、お客様に楽しんでもらおうと思えば、ではこれこれこうしようという考えが自然に浮かぶものではないでしょうか。とにかく気持ちが一番。介護もこの気持ちがないと、いい加減なお手伝いになってしまいます。この人のお役に立ちたいという強い気持ちをもって仕事をしていただきたいなと思います。

4.ホテルの設備(主に高齢者への対応部分)に関して
これから建つホテルはバリアフリーが原則ですが、当ホテルでは車椅子対応のバリアフリー・ルームもあり、レストランや宴会場でも高齢者のニーズに合わせた特別メニューをそろえています。また全館内に車椅子や盲導犬が入れる造りで、引継ぎの際も高齢のお客様の情報は漏らさず伝え、きちんとした対応を取っています。やはりそうした情報を持って接するということで、最初の段階からスムースな対応が可能になっていますね。また館内には中途半端な段差は一切なく、バスルームにも工夫がこらされているので、高齢者の方も安心して宿泊いただけます。

5.繰り返し宿泊してもらえるホテルにするには
何度もおみえのお客様なら、まず名前とお顔を一致させることですね。そして「○○様いらっしゃいませ」「○○様いってらっしゃいませ」という対応で、コミュニケーションの温かさを提供します。こうしたことの積み重ねでホテルが生き残っていくと僕は思っていますし、リピーターの方の情報はすべて把握しています。また営業の立場からは万全のフォローにより、細かい気配りを提供しています。たくさんのホテルの中でなぜここがいいかをうまく伝えて実感してもらえないと、お客様を惹きつけるのは難しいですね。でも最も大事な部門は実際にお客様と対応するスタッフであり、ここのサービスいかんで評価も決まってしまいます。今までのホテルは個々人の接客能力で成り立ってきましたが、これからはきちんとした接客ルールや方向づけなどを1つの冊子にしないと、新スタッフに教えたり安定したよいサービスの提供もできません。サービスにも個人差があるので、しっかりした基本の上に個性を乗せる形ができれば、と考えています。この点外資系のチェーンホテルは共通マニュアルがあるので、どこの国でも同じサービスを受けることができます。

6.生き残り戦略
ホテルの中には建物が老朽化し、空調、パソコン回線などのハード面でのサービスに追いつかなくなっているところが増えています。しかし古くても経営が順調なホテルがあるので、客数の減少は顧客に対するきちんとした対応努力を怠っている結果でしょう。ホテルで一番遅れているのがマーケティングです。今の世の中の流れを読んで、どういうものをお客様が好むかという点をもっと貪欲に調べて情報収集しなければいけません。ディナーショーなど様々なプランは出すものの、マーケティングのきちんとした調査の上に成り立っているか疑問ですね。もし独自の魅力あるサービスをブランドイメージで根付かせられれば、すごくよいホテルになれると思います。このブランド戦力で最も成功しているのが、外資系で新宿にあるパークハイアットです。またホテルの経費で一番かかるのが人件費ですが、よいサービスには人員が必要なのでみな苦労していますね。新しいホテルでは契約社員やアルバイトの増員で対応しているところも多いですよ。今後はますます高齢のお客様や新しいタイプのシニア層が増えるので、この方たちにそっぽを向かれたらホテルは成り立っていけません。この層にどれだけアピールでき、またよりマッチしたサービスやケアができるかが死活問題になっていくと思います。(文・ロキ)


 劣化が止まらない日本 
2005年11月07日 (月) | 編集 |
■少し前の記事になるが、日刊ゲンダイ10月18日号「小泉靖国参拝行動を病理学的に診断」の中で、精神科医で作家のなだいなだ氏がこう述べている。「反発されると、余計にやりたくなる。これは未成熟で大人になり切れていないからです。精神的に成長した人は、自分の感情や考えだけで行動しません。自分のやることがどういう意味を持つのか、俯瞰して眺めてみたり、10年先への影響を考えたりする。その上で決断するのです。大人の視点を身につけるには、親に反発し、親と対決し、失敗を経験することが必要。親の七光で生きてきた2世議員、3世議員は大人になれなくて当然です。そんな連中が国会で多数を占め、首相のイスにも座っている。これは不幸の極みです」


■なだいなだ氏には去年の初夏に北鎌倉の自宅でお会いした。通称「あじさい寺」の近く、急傾斜の坂を登った静かな住宅地である。
ちょうど湯河原に来て女将業を始めた直後で、いつもとは逆のルートを辿って北鎌倉の駅に降り立ったため、不思議な感覚と共に記憶している。
なださんの老人党には以前から興味を持っていて、自分のホームページにリンクしていた。また話の中に私も大きな関心を抱いていた「反戦落書き事件」が出てきたのには、わが意を得たりという思いがしたものだ。そのときに書いた記事を以下に記す。

  

  「老人党」で明るく世直し

ちょっと不思議な響きの名前は、スペイン語で“ナニモナイ ト ナニモナイ”のこと。ところが近頃の政治や社会ときたら何もないどころか腹が立つやらきな臭いやらで、もう我慢できないとインターネット上で「老人党」を立ちあげた。だから老人党は仮想(ヴァーチャル)政党だ。世直しの志さえあれば、入会資格も入会金も必要ない。賛同者の輪や若者たちのアクセス数も急増中だ。作家にして精神科医という豊かな人間観察眼で、やさしく時に厳しく、世の中の事象を見つめ続ける。


   目覚めよ老人、いざ鎌倉

戦後もすでに60年近く過ぎた今、イラクへの自衛隊派遣をはじめ改憲論争、年金問題、銀行破綻、物価高等々と民主政治や自由経済の根底を揺るがす事件や出来事が立て続けに起こっている。そんな動きに北鎌倉の閑静な一隅からNO!をつきつけたのが、なだいなださんである。
「弱い者にしわ寄せがきている。消費税にしろ、たった1%で2兆円にもなるのに、この事実を知ってる国民はほんのわずか。だからみんな声をあげなきゃいかんよということですね」と、鋭い政治批判を穏やかな口調で語る。
「政治に対して目覚めさせるのが老人党の目標。何をしてほしいかよりも、老人としてまだ残っている力をどう使いたいか。人のためになることに生きがいを感じる老人も多いから、そうした社会資源を上手に引き出していくべきですよ。老人には長年培ってきた知恵がありますからね」
老人党に入るのは簡単だ。自ら党員を名乗るだけでよい。老人でなくても、未来の老人ということで年齢は不問。そして党員になったら新聞、テレビ、雑誌をはじめ各政党ホームページの掲示板へ積極的に投稿しよう。また知りたいことがあれば調査報道も請求すること。
さらに、なださんはインターネットによる国民投票を提案する。
「公約以後の国が左右されるような重要問題に対して、国民はみな投票したがってるんです。もし法的に難しいなら模擬投票でもいい。そうすればもっと政治に関心が出るし、政治家だってごり押し政治はできなくなると思いますよ」


   事件の陰に精神科医

精神科医の仕事のかたわら、執筆活動も行ってきた。医師としては当時は珍しいアルコール中毒患者の治療に携わった。最近も小学生の起こした殺人事件が話題になったが、精神科医の目にはどのように映ったのだろうか。
「事件が起きた時の反応が大事ですね。センセーショナルで珍しい事件だから騒がれるんです」と、なださんは言う。
「事件現場の周囲の過剰反応は、まさに集団ヒステリーですよ。みんなが冷静になれないでいる。こうした非日常的な事件より、もっと日常の部分に目を見据えることが必要ですね。たとえば―あなたは壁に落書きしている人を見たとき、どのらいの刑になると思いますか?」
イラク戦争直後の4月17日、杉並区の公園トイレに“戦争反対”“反戦”の落書きをした青年が逮捕された。他にも多数の落書きがあったにもかかわらず、彼だけが逮捕されたのだ。容疑は建造物損壊。検察による家宅捜索および長期拘留の上、懲役1年2ヵ月(執行猶予3年)の判決が下った。いわゆる“反戦落書き事件”である。
「外国の裁判例では、落書きの刑は公共奉仕活動10日と警官と一緒の落書き消しで、それが常識の線ですよ。ところがまるでファシズム時代のような取締りが民主国家日本で起きたわけで、しかしこうした本質を考えなければいけない事件はマスコミには取り上げられずに、非日常的な事件の報道の陰で消されてしまう。競争で同じネタばかりを流すというマスコミの姿勢にも大いに問題がありそうですね」


   60点で満足できる社会

「この前障害者の会に行ったら、今まで無料だった入浴サービスが1割負担になり、お金がかかるからと障害者が肩身の狭い思いをしていた。それに介護保険の運営のために官僚の仕事量がとても増えたし、医者も診断書作りで忙しい。ここにかなりの問題があると僕は感じてるんですよ。つまりこうした仕事が増えた裏では、介護者に使われるお金が減っていくわけ。介護される側の声を吸い上げるシステムが弱くなってるんですね」と、医師として患者に接してきた経験から介護問題に関しても手厳しい。
「それから介護の専門家と称してテレビに出ている人たちが使う言葉。ケアマネージャーにメニューを作ってもらいなさいって言ったって、90のおばあさんには理解できませんよ。そうじゃなくて、手を握って“おばあさん、何してほしいの?”って話せばいいんです。もっと現場中心に考えていくべきですね」
政治不信や無関心は、弱い者たたきやいじめの土壌も生み出していく。
「何か事件が起きるたび文部科学省は“心の教育”を持ち出すけれど、お説教で事件はなくせない。早い話が100点満点の試験をやめて、60点を合格ラインにすればいいんですよ」
つまりひとつの尺度の元で完璧を求めるのではなく、60点で満足できる社会ならば、さまざまな価値観や評価も可能になるということだ。人間も思想も同じで、完璧なものなどない。
「悪いところは修正して、1割でも2割でも改革の芽があればそちらにかけますよ。そして政権交代を繰り返していけば、少しはましな世の中になるでしょう」と、老人党党首は笑みを浮かべてうなずいた。(文・ロキ)









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