激動する社会の波におぼれずに、自分の頭で考え 行動しようじゃないの。 命令されるのなんか 大嫌い。「群れない、媚びない、とんでもない」の猫の精神でがんばっていきまっしょい。
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 5.11は歳三戦死の日
2015年05月11日 (月) | 編集 |

5月11日は土方歳三が箱館戦争の最中、一本木関門で戦死した日である。
早朝、新政府軍の総攻撃が開始された。箱館政府(旧幕府軍)のメンバーである
新選組(隊長は相馬主計)は箱館奉行・永井尚志と共に弁天台場に立てこもった。
約250名。


同日明七つ半時、砲撃声に廓中人員城外に進み見るに敵海軍大進撃、直に兵を七重浜に出す、箱館はただ土方兵を引率して一本木より進撃す、土方、額兵隊を曳て後殿(しんがり)す、故に異国橋まで敵退く、大森浜の敵の一艦、津軽陣屋を見掛て打つ、彰義隊は砂山にて戦う、七里浜へ敵後より攻め来る故に、土方これを差図す、故に敵退く、また一本木を襲に、敵丸(てきだま)腰間を貫き遂に戦死したもう、土方氏常に下万民を憐み、軍に出るに先立て進みし故に、士卒共に勇奮うて進む、故に敗をとる事なし    『立川主税戦争日記』より



5月11日の早朝5時頃、新政府軍が総攻撃を始めた。
五稜郭の箱館政府軍は七重浜に兵を出し、陸軍奉行並(陸軍中将)である土方歳三も
馬にまたがり、彰義隊、額兵隊、見国隊、社陵隊、伝習士官隊ら約500名を率いて出陣。
弁天台場の窮地を救おうとしたが、新政府軍の猛攻撃を受け、銃弾に腰を撃ち抜かれて
落馬。即死だったという。享年35歳。
5月15日、弁天台場の新選組・相馬主計は五稜郭の榎本武揚総裁と協議して降伏。
ここに新選組は終焉を迎えたのだった。
5月17日、ペリー来航時に堂々と対応したことで知られる中島三郎助が息子たちと共に
戦死。翌18日、五稜郭の箱館政府幹部らも降伏し、徳川の長い時代も幕を下ろした。







歳三ビールと猫のマヨ。




小島政孝氏(小島資料館館長)の著書『新選組余話』より。

     両雄實録

 小島資料館に『両雄實録』という綴りが一冊ある。
 目次をみると次のようになっている。
 
    血涙集
    両雄士伝   小島為政撰  亥五月改正(明治八年)
    同        大槻磐渓朱加
    磐渓翁碑文  写  二通
    両雄士伝   井上友助撰  倉田幽谷先生朱加

 血涙集は近藤勇、土方歳三の追悼詩集である。有名な漢学者から知人、親戚、関係者にいたる詩文を集めてある。

    七言絶句    73
    七言律詩    12
    五言絶句     2
    五言律詩     1  
    和歌       13
    俳句        3 
    漢文        2

 合計106の詩文がある。このことからも、いかに多くの人が彼ら二士の死を惜しんだかがわかる。
 のちに石坂昌孝がこれらの詩の一部を三本の軸に収めて書いたものが小島資料館に伝わっている。石坂は、近藤勇の門人で、のちに自由民権運動で活躍し、第一回衆議院選挙で当選し国会議員となった。 






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 日本をまるごと私物化  「明治日本の産業革命遺産」も安倍首相の個人的好みで選考
2015年05月07日 (木) | 編集 |

富士山が世界文化遺産になったばかりなのに、今度は「明治日本の産業革命遺産」
が登録勧告を受けたということで、さっそく各地の施設に観光客が押し寄せたと
ニュースでやっていた。
有名になる前に見物に行くのが通(つう)なんだよと内心でうそぶきつつ(^_^;)、23施設
も登録するのはいくらなんでも大盤振る舞い過ぎるんじゃない? 何となく違和感を
感じる。特に名称が「明治日本の」となっているのに、幕末の韮山反射炉も入っているし
それなら「幕末日本の」とすべきだろう。同様に、軍艦島はなぜ明治?

で、もともとは「九州・山口と関連地域」の遺産を登録するつもりだったと知ってなるほどな
と納得すると同時に、本来は長崎の教会群を登録するはずだったのを、急遽明治時代、
しかもあくまで九州・山口メインとするよう官邸のゴリ押しがあったというからくりに、今年
の大河ドラマと同様、すべてが安倍首相の個人的な好みが反映していることに鼻白んだ。
これ以上、日本を私物化するな(゚Д゚)ノ






図は東京新聞より。



     東京新聞 5月5日
       http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015050502000125.html

         産業革命施設 世界遺産へ 明治日本の発展示す

 政府に四日入った連絡によると幕末から明治の重工業施設を中心とした「明治日本の産業革命遺産」(静岡など八県)の全二十三施設を世界文化遺産に登録するよう国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関が勧告した。七月三~六日にドイツ・ボンで予定されている世界遺産委員会の審査で正式に決まれば、「富士山」(山梨県、静岡県)、「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県)に続き三年連続で、日本の世界文化遺産は十五件目になる。 

 産業革命遺産は、静岡県伊豆の国市の韮山(にらやま)反射炉や「軍艦島」の通称で知られる端島(はしま)炭坑(長崎市)などで構成。官営八幡(やはた)製鉄所(北九州市)や三菱長崎造船所(長崎市)が導入し百年以上にわたって稼働し続けている施設が含まれる。

 諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)は「西洋技術を積極的に改良して日本のニーズや伝統に適合させ、五十年余りという短期間で本格的な産業化を達成した」と歴史的な価値を評価した。「九州・山口と関連地域」とのサブタイトルを「製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」に変更し、老朽化が進む軍艦島の保全対策などを二〇一八年の世界遺産委で報告することも求めた。

 世界遺産委では日本やインドなど二十一の委員国が合議し登録の可否を決める。日本が推薦した候補で登録勧告が覆された例はない。だが今回は委員国の韓国が「朝鮮半島出身者を強制労働させた施設がある」と強く反対しており、審議が紛糾する恐れもある。 (以下略)





というわけで、どさくさ紛れで遺産の一つに加えられた「韮山反射炉」。
地元では長年大切に保存してきて、しかも世界遺産に登録されるのは悲願だった
のだが、今に至るまで明治政府に対する賊軍扱いされている旧幕府の逸材たちが
行った偉業を、十把一絡げに扱ってほしくないというのが本音でもある。

雑誌『時空旅人』5月号に、ちょうど韮山反射炉が掲載されていたので、その部分を
ご紹介したい。




   

左:表紙。この号の特集は、忘れられた歴史の影 敗者から見る幕末
「義に殉じた武士の意地 長州に敗れた漢たち」

中:幕末の天才 韮山代官・江川英龍(えがわひでたつ 号は坦庵たんなん)
幕末の教育者というと吉田松陰や佐久間象山ばかりがもてはやされるが
その象山が入門したのが江川の韮山塾であり、江川が近代化推進に
及ぼした影響力は計り知れない。

右:江川坦庵が建設した韮山反射炉。



    

左:江戸湾のお台場を設計・建造したのも江川である。

右:日本に来航したのはペリーだけではない。
ロシア使節ラクスマンやレザノフをはじめ、プチャーチンも来航し
日露和親条約が締結された。恫喝外交のペリーに対して
プチャーチンは日本側に紳士的に接した。
 



 参照

 本当の日本の夜明けはここから始まった。静岡県韮山・江川英龍邸探訪 その1
         http://tekcat.blog21.fc2.com/blog-date-20110111.htm

 静岡県韮山・江川英龍邸探訪 その2 韮山反射炉
       http://tekcat.blog21.fc2.com/blog-date-20110112.html

 日露友好の原点 西伊豆・沼津市戸田を訪ねて その1
       http://tekcat.blog21.fc2.com/blog-date-20100119.html

 日露友好の原点 西伊豆・沼津市戸田を訪ねて その2
       http://tekcat.blog21.fc2.com/blog-date-20100120.html







 京都・西本願寺で新選組の新たな記録を発見
2014年09月03日 (水) | 編集 |

21世紀に入り、幕末維新史における新選組の新たな見直しがようやく本格化し
これまで見逃されてきた文書や史料も次々と発見されている。


これは9月3日の東京新聞に掲載された記事で、西本願寺の北集会所を新たな屯所とした新選組が京の猛暑に苦しみ、歳さまが待遇改善のため阿弥陀堂も借りたいと寺側に申し出たという記録が見つかったそうだ。
しかしなにぶん未だに新選組嫌いの本願寺の解釈なので(^_^;) 「当時の新選組は崩壊の危機にあった」云々の解釈つきだが、新選組が崩壊の危機にあったのは池田屋事件以前のことで、西本願寺時代は隊士も増え、安定した日々を送っていた。 
しかしながら、「暑くて暑くて、もう我慢できねぇんだよ。どーにかしろぃ(#゚Д゚)!」とブチ切れそうな歳さまの心情が伝わってきて、たしかにこれは貴重な文書といえる。




さて以下に転載するのは、8割の市民が新選組嫌いだとされる(ノ∀`)
地元京都の新聞記事。
…のわりには東京新聞より多少好意的な内容であり、しかも永倉新八の手記より
信頼性が高い史料と断定しているところがうれしい。
晩年の永倉の回想をさらに改竄した新聞記事がひとり歩きして、これが逆に新選組を
貶める結果になっていることは否めないからだ。
今後も新たな史料が発見されて、新選組研究にさらなる弾みがつくことを願ってやまない。


     京都新聞 9月2日
       http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20140902000121

            土方歳三の苦悩生々しく 京都・西本願寺で新選組文書発見   


写真の説明:西本願寺で見つかった新選組関連の史料。手前は阿弥陀堂50畳の拝借を求めたことが記された文書(2日、京都市下京区・西本願寺)西本願寺で見つかった新選組関連の史料。手前は阿弥陀堂50畳の拝借を求めたことが記された文書(2日、京都市下京区・西本願寺)

 西本願寺(浄土真宗本願寺派本山、京都市下京区)が、幕末に境内に駐屯した新選組とのやりとりを書き留めた文書類を発見し、2日発表した。当時の状況を記した史料はこれまで知られていなかった。「鬼の副長」と皆に恐れられた土方歳三の苦悩や焦りがにじむ貴重なものという。

 寺の日記など計14点で、新選組が境内に入った1865(元治2~慶応元)年と、寺を出る67(慶応3)年のやりとりが分かる。

 このうち、慶応元年6月の「諸日記」には、200畳の広さがある北集会(しゅうえ)所に駐屯した隊士の様子が生々しく記されている。土方は畳1枚に隊士1人が寝る手狭な環境と炎暑によって、「誠々以凌兼」(誠に誠に我慢できない)ので病人が出て隊士の不満を制止できないと、同寺に窮状を説明し、阿弥陀堂の一部、畳50枚分の貸与を願い出た。寺側が代替案として北集会所の改修を申し出ると、土方から感謝の手紙が届けられたとの記述があった。

 調査した本願寺史料研究所の大喜直彦上級研究員(53)は「土方が隊をまとめるために苦悩していたことが伝わる。『一畳一人ツツ位之割』の記述から、隊士が200人ほどだったことが分かる」とする。

 また、西本願寺が僧侶らに対して、隊士に傲慢(ごうまん)な態度を取るなとお触れを出したことや、同寺のほか寺と関係する商人が合わせて計500両を新選組に支払ったことも記録されていた。当時の門主が北集会所近くにあった「御成道(おなりみち)」を使わず新選組を避けるように同寺に出入りしたことや、新選組が寺を出て行くことに尽力した寺関係者に褒美を与えたことなども記されており、新選組に対する同寺の複雑な胸中がうかがえる。


■信頼性高い史料

 京都女子大非常勤講師の中村武生さん(幕末政治史)の話 新選組が西本願寺に旅宿(駐屯)したころの具体的な動きを知る同時代史料はなく、リアルで信頼性が高い。幹部の永倉新八が後に記した手記の影響で、新選組が西本願寺に対する嫌がらせを継続させたように理解されているが、少なくとも駐屯初期はお互いに配慮していたことが分かる。今回の史料は永倉の手記の検証にも役立つ。







 5月11日は土方歳三が戦死した日
2014年05月11日 (日) | 編集 |

な、なんと1年前の今日、途中まで書いてオクラ入りさせた日記を復活
以下の写真から ↓






左から沖田総司、近藤勇、土方歳三のフィギュア。
しばらくロビーに飾っていたが、バラバラになって紛失(つд⊂)
それにしても、今朝からものすごい土砂降りの雨だ。



 
明治2年5月11日(1869年6月20日)は、箱館戦争を戦っていた土方が一本木関門付近で銃弾に倒れた日。享年35歳。
以前、北海道在住で幕末史を研究している人に聞いた話では、歳三の遺体は今も五稜郭内で眠っているそうだ。伊庭八郎の墓の隣りに埋葬されたという記録もある。
彼が戦死した状況や埋葬地に関しても諸説あるが、私がどこかで読んだ本に、落馬した歳三の体を彼に従っていたお庭番が素早く抱きかかえて五稜郭内に取って返したと記した箇所があった。
残念ながらどの本で読んだのか失念してしまったが、多摩時代の歳三の空白の8年間から、彼が何らかの密命を帯びた公務にかかわっていたのではないかと考えているし、また近藤勇の生家のルーツも忍びと関連してる可能性があることから、歳三の従者の中にお庭番がいてもさほど不自然ではないだろう。
歳三や勇に関する更なる詳しい研究が待たれるところである。









と、ここから1年ぶりに書き足してみる
1年寝かしたおかげで(?) 今月9日・16日と歳三の命日をはさんで2週にわたり
BSプレミアムで『新選組!! 土方歳三最後の一日』を再放送。
このスピンオフ・ドラマは、何度見ても胸がキュンとなる。
おまけに10日、11日の日野新選組まつりのニュースをNHKでけっこう長く報じて
くれて、これにも感激。
また多摩へ遊びに行きたいな






 天保6年5月5日は土方歳三の生誕日
2014年05月05日 (月) | 編集 |

また5月5日が巡ってきた。だけど、考えることはいつも同じ。
というわけで、怠けついでに1年前の5月5日の日記を再掲する







5月5日はこどもの日でもあり、土方歳ちゃんの誕生日でもある
ま、西暦変換すると1835年5月31日になってしまうのだが、そこはわかりやすく
5月5日と記憶したい。ただ土方家の過去帳には天保7年の正月生まれとあるので
昔の人の正確な誕生日を推定するのはなかなか難しい。


先月東京・恵比寿へ、下記のように北海道・東北に収蔵されている貴重な古写真展
を観に行った。詳しい内容についてはまたいずれ書くことにするが(いずれいずれ…で
かなりの数の旅行記がペンディングのままだが)、写真展のちらしやポスターになって
いるのが、箱館で撮影されたという歳三のあの有名な写真(ゼラチン・シルバー・プリント)
である。実物はかなり小さい。
土方の写真についての考察はこれまでいろいろ発表されてきたので、ここでは繰り返さない。
その代わり、彼の首に巻かれた白い布(マフラーや手ぬぐい説など)の謎について『歴史読本』
で平山晋氏(明治初期軍装研究蒐集家)が明快に解き明かしているので、簡単に紹介したい。









平山氏によると、「マフラーにしてはフカフカさもなく、長い部分を首から胴衣のなかに
入れているようにも見えません。」「ですからこの土方歳三が首に巻いているのは当時
流行のクラバットと考えます。」
クラバット(フランス語・cravate)とは17世紀から19世紀にかけて、西洋の男性が
首に巻いたスカーフ状の装飾で、ネクタイの原形をいう。
また彼が着用している外套は、ベルベットの襟がついた防寒用のチェスターフィールドコート
で、これも流行りの16個の金属球形ボタンがついたクレリカルチョッキタイプの短い胴衣に、
ボタンに引っ掛けた懐中時計の鎖、右の腰には短銃のホルスターと、いかにもオシャレな
歳三流の高級ファッションだと、この写真からも納得できる。








歳三生家仏壇
土方 愛『子孫が語る土方歳三』より。



さて味方のみならず敵からも「美男子」とその容貌を評された歳三だが、
彼の人となりの印象を、共に箱館戦争を戦った榎本武揚が後にこう語っている。
榎本は賊軍の将として刑に服し、その後明治新政府の閣僚となった。
その榎本の元に歳三の甥の土方作助が訪れ、箱館での様子を尋ねた。
すると榎本は、上の写真の仏壇に掲げられている書をしたためたのだった。


  「入室伹清風(にゅうしつしょせいふう)  梁川」

意味はこうだ。
「歳三という男。部屋に入ると清らかな風が吹くような、そんなさわやかな人物であった。」
                     (『子孫が語る土方歳三』より)


いかにも5月生まれにふさわしい、歳さんのステキなエピソードである。






 深大寺で見つけた近藤勇の土鈴
2014年03月02日 (日) | 編集 |

2月の休みに調布の深大寺へ行って、以前にも干支の置物を買ったお店で
近藤勇の土鈴を発見(^_^;) なにしろ調布は近藤勇の生家(宮川家)がある場所で
深大寺と新選組と映画、そして鬼太郎(水木しげる)で有名なのだ。






勇ちゃんによく似てる(^-^)
なるべく目が細い土鈴を選んだ。





後ろ姿。





今年の干支の馬と一緒に。
深大寺は赤駒で有名で、お寺にも巨大な藁の赤駒が奉納されていた。

赤駒を山野に放し捕りかにて
多摩の横山歩ゆか遣らむ  (万葉集)

近藤の実家・宮川家は、将軍に献上する馬の飼育に
関係していたのではないかという説もある。





ついでに、新選組関連のちょいレア本などのご紹介を。




左上:野口武彦『新選組の遠景』
予想していたより面白い内容だった。
これまで親しまれてきた小説や映画、ドラマなどをきちんと検証し
正史と稗史の両面から新たな新選組像を提示している。
草の根の莫大な数の民間研究者が発掘した資料と
最近の歴史学者によるアカデミックな研究の
ちょうど橋渡し的な内容といえるだろう。

右上:福田定良『新選組の哲学』
新選組を愛する哲学者による、司馬遼太郎原作のTVドラマ
『新選組血風録』に出てくる隊士たちの心理を
巧みに描いた哲学的ストーリー。

左下:小島政孝『新選組余話』
小島資料館が所蔵する貴重な新選組資料集。
当時の隊士たちや多摩の人々の姿や肉声が
生き生きと伝えられている。

右下:冨樫倫太郎『箱館売ります 幕末ガルトネル事件異聞』
榎本武揚の蝦夷共和国政府を舞台にした小説。
土方歳三も活躍する(^_^;)
これとは違うが、アニメ『幕末機関説 いろはにほへと』でも
蝦夷共和国についてけっこう時間を割いてやってたし
土方もカッコよく描かれていた。


左端は猫のキキのシッポ(^^;;







 都知事選、あなたの一票が東京から日本を変える
2014年02月06日 (木) | 編集 |

細川・宇都宮両陣営を脱原発で一本化できないまま、都知事選の9日が近づく。
メディアは相変わらず舛添優位を報じ、ひたすら小泉隠しを図っている。
おまけに投票前日の8日は東京周辺が大雪だとか。
う~ん、結果がどう出るのか心配だ。







左からソージ、イサミ先生、トシちゃん。
自由民権運動発祥の地、多摩出身の新選組も
脱原発のリベラル候補を応援してます(^^;

ちなみにトシちゃんは、明治元年12月に
箱館政府の選挙(入札)で第6位という高い得票を獲得し
「陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取」という役職に就任。
後の明治中期には、近藤家及び試衛館の門弟たちや
土方家の子孫が自由党に入党し、自由民権運動を牽引するなど
元々政治に関係の深い人たちなんです。
イサミちゃん自身も、剣客というより有能な政治家だったしね。

みんな、政治に興味を持って選挙に行こう!
小さなその1票が、東京をそして日本を変える
大きなパワーを持っているのだから!






 山本太郎議員に脅迫相次ぐ
2013年11月21日 (木) | 編集 |

秋の園遊会で天皇に手紙を渡した山本太郎参院議員に対する脅迫が続いている。
13日には山本議員宛に折りたたみ式のナイフが入った封筒が届き、封筒の裏面には
殺害予告の文章も書かれていた。
この事件について、愛人問題を週刊誌にすっぱ抜かれた鴻池元防災相は麻生派の会合
で「切腹用の刀が送られたそうだ」と発言して、物議を醸した。
それ以前にも鴻池のおっさんは、「(山本太郎に)天誅を加えなきゃいかん」などと言って
いたそうだ。いったいいつの時代の話だよ<`~´>


そして本日21日にも、金属性のリード線みたいなものが入った封筒が届き、裏には
ほんとに「天誅」と書かれていたんだとか。


さて山本太郎といえば、私の中では陽気でおっちょこちょいな新選組の原田佐之助と
イコールで(^^;; 天皇に手紙を渡すなどいかにも左之助らしくていいなあ、などと思った
ものだ。下の写真は、NHK大河ドラマ『新選組!』での山本太郎。 






原田左之助は伊予松山出身で、種田宝蔵院槍術の使い手。美男で頭の回転が早く、
目上の者に逆らっては制裁を加えられていたという。
その腹には真一文字に切腹した傷が残っていて、酔うと着物の前を広げて傷跡を
見せびらかしていたそうだ。
その後脱藩して江戸の試衛館の食客となり、近藤勇らと共に京へ上った。
鳥羽伏見の戦い後に近藤と決別した左之助は、上野の彰義隊に加わり戦死(享年29歳)。
しかしその勇猛果敢な性格から、生き延びて満州の馬賊の頭になったという伝説もある。


だからそんな山本・左之助に「切腹用の刀」というのも、逆に可笑しい。
「ねえねえ、すごいっしょ、この傷跡」と鴻池のおっさんらに見せびらかしてほしい。
それに「天誅」って(^_^;) 天誅を口実に京都でテロを働いている連中を取り締まってたのが
新選組だったんだから、早く左之助に捕まっちゃいなさい。
ちなみに幕末の豪商・鴻池は新選組に経済的援助を惜しまなかったんだが。

そんなこんなで、マルクスは「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」
と言ったが、まさにこの事件も、同じく二度目の喜劇として繰り返されたのであった。
な~んてね(^^ゞ





 グローバリズムの総仕上げとしてのTPPとその打破の可能性を求めて
2013年10月24日 (木) | 編集 |

グローバリズムという名のもとで、ごく少数の者が大多数の人々を支配する
弱肉強食のシステム、新自由主義経済が世界を席巻して経済格差を拡大している。
日本でも米国の意向を受けた小泉・竹中構造改革によって国のかたちを根本から
変えられ、さらなる構造改革を推し進める安倍政権は日本を米国の狩場に提供し
日本人が培ってきた文化や精神、誇りをもズタズタに切り刻もうとしている。
そしてTPPは、そのグローバリズムの魔手の最終仕上げでもあるのだ。








   東京新聞 10月8日
     http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2013100802000110.html

       政府・自民 公約転換へ TPP聖域5項目 譲歩も 

【ヌサドゥア(インドネシア・バリ島)=城島建治】安倍晋三首相は八日、バリ島で環太平洋連携協定(TPP)交渉の首脳会合に臨む。首相は年内妥結に向けた「大筋合意」に意欲を見せるが、政府・自民党は自分たちが関税を撤廃させない「聖域」としたコメや乳製品など重要五項目で、唐突に譲歩する姿勢を見せ始めた。撤廃となれば政府方針の大転換で、明らかな公約違反だが、首相は国民に説明しないまま突き進もうとしている。(中略) 

 そもそもTPPは高い自由化率を目指す交渉。自民党内の慎重派には交渉前から「聖域すべてを守るのは不可能」(中堅議員)との声は多かった。

 石破氏は「細目の中で(撤廃を)検討するのは公約変更ではない」と強弁するが、TPPを成長戦略の裏付けにしたい首相が妥結を急ぐほど、日本は譲歩を迫られることになりそうだ。





近年の著しい閉塞社会の突破口を開こうとする試みの中で、江戸時代への関心が
高まっているという。かく言う私もその一人だが(~_~)、最近読んだ本の中に興味深い
記述を見つけた。


 編者の歴史学者・大石学氏は、江戸時代を、これまで通念として捉えられてきた封建時代としてでなく、early modern(初期近代)として、すなわち「私たちが理解不可能な、近代と断絶した時代では無く、地続きの時代として見ていいのではないか」と問題提起している。

 現在、各地の城下町はシャッター街と化し(うちの近くの小田原市もそうだ)、会社は年功序列からシビアな能力主義に変わるというように、「江戸時代以来の機能や景観が、いま壊れようとしているのです。」

 江戸時代から続くシステムとしては、「官僚制」「鎖国(国家が国民の出入国を管理するシステム)」「首都としての江戸」「核家族の元としての家」などがあげられる。




大石氏は江戸時代を、

 「日本型社会・日本型システムと呼ばれる今日の日本社会の特質を生みだした時代として位置付けています。これは、日本近世・近代が成立・発展させてきた日本型社会・日本型システムが、今日グローバル・スタンダードのもとで、変質・解体しつつあるという認識にもとづいている」、すなわち、江戸時代が作り、育ててきた日本型社会・システムが今壊れようとしていると考えているのです。


そして江戸時代の変化のまとめとしては、

(1)江戸時代は、現在の私たちの国家・社会に連なるさまざまな要素、すなわち日本型社会・システムが成立・発展する時期でした。この日本型社会・システムの成立・発展は、幕末維新期の西欧の衝撃(ウエスタン・インパクト)に先行する日本型の自律的な国家・社会の形成過程=近代化ともいえます。すなわち、ペリーやハリス来航以前、日本国家・社会は、日本独自の近代化を進めていたのです。
(2)したがって、今日、グローバル・スタンダードのもとで、変質・解体しつつある日本型社会・システムは、歴史的には江戸時代の終焉とみることもできるのです。
(3)以上のように、理解不可能な遠い時代として描かれていた江戸時代は、むしろ理解可能な地続きの江戸時代として、とらえ直される必要があるのです。




このようにグローバリズムの結果、江戸時代以来の日本型社会・システムが解体
されようとしている事実をしっかり認識することで、この流れに対抗する手段が見えて
くるのではないだろうか。そのためにも、これまでネガティブに考えられてきた江戸時代や
幕末維新期の歴史を改めて学び直したいと思っている。








 福島で「白虎隊ウォーク」が復活
2013年09月25日 (水) | 編集 |

昨日に引き続いて福島のニュースなど。
会津戦争や白虎隊とも、新選組の土方歳三や斎藤一らが深く関わっているので
こうしたイベントが再開されたことは感慨深い。



   福島民報 9月25日
     http://www.minpo.jp/news/detail/2013092511108

         3年ぶり白虎隊ウオーク 若松で隊士の足跡探る


 戊辰戦争で西軍に追われた白虎隊士が通った飯盛山の洞門を歩くイベント「我ら!白虎隊ウオーク」は24日、会津若松市の同所で行われた。
 飯盛山商店会(飯盛康子会長)の主催。東日本大震災以降、毎年秋に開催していたイベントを中止していたが、復活を望む声に応え、3年ぶりに再開した。地域住民ら約100人が参加した。
 近くの旧滝沢本陣で出陣式を行い、飯盛山裏手の洞門入り口に向けて出発。参加者は白虎隊士に思いをはせながら、懐中電灯を片手に約170メートルの洞門の中を歩いた。
    













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