2012年03月06日 (火) | 編集 |
■ようやく半日休みが取れて(ほ〜んと、貧乏暇なしだわ
)午後1時過ぎに、新しく開店した美味しいと評判のラーメン屋さんに行ってみた。

湯河原駅より徒歩10分。
ちょっと倉庫っぽい建物の1階が「らぁ麺屋 飯田商店」。
カウンター7席の小さなお店だが、人気が高くてなかなか食べられないらしい。
営業時間は11時から15時まで。
しかも食材終了後に閉店ということで、こりゃ大変だ(^^;

平日の昼過ぎということで、なんとか座れた。ラッキー。
これは「醤油らぁ麺」700円。
比内地鶏のスープに、とろりとからむような細麺、
イベリコ豚チャーシューと鶏チャーシューが超美味。
最後まで熱々のスープはとても懐かしい味がした。
メニューはこの他に、ニボっちゃん(煮干100%スープ)700円
ワンタン麺 850円、つけ麺(限定10食)800円。

サイドメニューの、比内地鶏のバター醤油ごはん(鶏油)200円。
うんまいわぁ。
比内地鶏のたまごかけごはんは、売り切れだった。残念。
以上、どうもごちそうさまでした<(_ _)>

遠出はできないので、幕山公園にある湯河原梅林を訪れた。
7、8年前くらいに梅林ができた頃は1月末には梅が咲き始めたものだが
その後、年々寒さで開花が遅れ始め(いったいどこが温暖化じゃい
)今年はついに例年より3〜4週間遅れの開花となった。

花よりダンゴということで、いろいろな出店がでているのが楽しい。
甘酒と梅ソフトクリームを食す。

現在、やっと3分咲き。
去年は大震災前の3月3日に来たんだった。このときは7分咲き。
「雨の湯河原梅林 2011.3.3」
http://tekcat.blog21.fc2.com/blog-date-20110303.html

午後からぐんぐんと気温が上がり、湯河原はなんと24度

冬から一気に初夏になった気分だ。

いつのまにやら、こんな看板が立っていた。
おとししは来なかったし、去年は雨で傘をさしていたので
気が付かなかったのだ。

ずっと探していた小田原北条氏と鍛冶屋の謎の答が
こんな目の前に書いてあったなんて! あちゃーっ!
しかし、求めればちゃんと答が返ってくるもんだわね(^o^)
鎌倉北条氏→小田原北条氏→近藤勇・土方歳三のルーツ
正宗屋敷跡と製鉄遺跡
この地は古くから正宗屋敷跡と呼ばれ、金山堂が祀られてきました。
大正12年に発生した関東大地震による壊滅的な被害を受け、
大正15年に瑞應寺屋敷内の現在地に移転しました。
平成16年、この地を試掘したところ、多量の鉄滓が出土しました。
この鉄滓は放射性炭素年代測定法(加速器質量分析法)により
西暦940年〜985年頃(平安時代中期頃)の遺物と分析され、
この地で古代製鉄が営まれていたことがわかりました。
平成22年3月吉日
湯河原町鍛冶屋金山講
湯河原町教育委員会
戦国武将・小田原北条氏の足跡をたずねて
〜湯河原 瑞応寺・金山堂〜 2011.9.23
http://tekcat.blog21.fc2.com/blog-date-20110923.html
2012年03月03日 (土) | 編集 |

■いやあ寒い桃の節句だこと。
桃どころか、梅の花もまだ咲き始めの状態だし、梅祭りをやっている観光地は
どこもお手上げ状態だ。
一番頼りになる従業員は風邪でずっと休んでいるし、黒猫ラッキーも鼻水を
ブーブー鳴らしている。
■ところであまり関係ないけど、3月3日は雛祭りの他に、幕末の1860年に
「桜田門外の変」が起きた日でもあったのだ。
ペリー来航の後、幕府は日米修好通商条約を巡って朝廷と対立し、更に将軍の後継者を巡り諸大名とも対立していた。安政5年、幕府の大老・井伊直弼は朝廷の許可なしで条約を結び、将軍の後継者問題も決着させる。その後井伊は、幕府の独断を非難する公家や大名を弾圧して、幕府の政治力の回復を計るが、それが諸藩の反発を招くことになった。万延元(1860)年3月、井伊は江戸城へ登城の折、桜田門外で尊王攘夷の志士に暗殺される。大老の暗殺は、幕府がもはや独断で政治を行えない事を天下に晒す事となった。幕府の権威の失墜と同時に、新たな政治勢力として尊王攘夷の中心である朝廷が浮上してくる。(NHK さかのぼり日本史より)
■で、この桜田門外の変の印象を、土方歳三は次のような句にしたためている。
(井伊公)ふりなからきゆる雪あり上巳こそ
上巳(じょうし)とは、3月3日の桃の節句のことである。
井伊大老が暗殺された桃の節句の朝は雪が降っていた。
少し前に公開された映画『桜田門外の変』には、この雪の中での暗殺の様子が
実にリアルに描かれている。
■そしてこれより3年後の文久3年(1863年)、朝廷から攘夷を迫られ上洛することに
なった将軍・徳川家茂の警護のため公募された浪士たち250名が京都に到着。
しかし浪士組を組織した清河八郎に反発した近藤勇と芹沢鴨(井伊直弼を暗殺した水戸藩・
天狗党の残党)は、老中に談判までして将軍の帰東を阻止した。
将軍が京都に留まることで幕府は江戸と京都のふたつに分かれ、京都では孝明天皇と
「一会桑」(いっかいそう)の結びつきが強くなって、江戸の幕閣と対立した。
一会桑とは、一橋慶喜(最後の将軍・水戸藩出身・井伊直弼と敵対)・会津藩・桑名藩の
頭文字で、会津藩主の松平容保は京都守護職に、弟の桑名藩主・松平定敬が京都所司代に
任命された。
そして京都残留を選んだ尊王攘夷の浪士たち―近藤勇・芹沢鴨ら―は会津公御預かりと
なり、のちの新選組になっていくのである。
■こうした史実をみても、従来のような勤皇対左幕といった単純な区分では説明できない
ことが現在では明らかになってきた。
また幕府側も一枚板ではなく、民主党の中にも小沢派と反小沢派がいるように、あえて
たとえれば、幕末の小沢派である一会桑(新選組を含む)+孝明天皇と反小沢派の幕府は
対立関係にあったわけである(^^;
2012年02月23日 (木) | 編集 |

新選組局長 近藤勇
剣の腕だけでなく、政治家としても有能な手腕を発揮した。
■149年前の今日―文久3年(1863年)2月23日―後に新選組を結成する
近藤勇、土方歳三、沖田総司らを含む約250名の浪士たちが京の壬生村に到着した。
江戸を出発したのが2月8日。中仙道を通り、約2週間の道のりだった。
ペリー来航からちょうど10年目にあたる。
■当時の日本は脱藩浪士や富農豪商らの草莽層をはじめ、薩長土藩の尊王激派が
公然と政治活動を始めるようになり、公家たちも激派と結びついて幕府に繰り返し
攘夷の決行を迫っていた。
そして京では、薩長激派による天誅と称する幕府派への暗殺や脅迫事件が多発。
各地でも外国人殺傷事件が起こった。
そこで幕府は、攘夷運動の浪士たちを集めて登用すれば人心は幕府に帰するだろうと
考え、松平主税助と清河八郎が中心になって浪士を募集した。
こうして250名もの浪士たちが、攘夷の実行のため上洛する将軍の警護という名目で
京へ向かったのである。
つまり近藤をはじめとする彼ら浪士たちは、朝幕合体による「尽忠報国」(尊王攘夷)を
目指す有志集団であり、ゆえに勤皇対左幕といった単純な区分はここでは通用しない。
■京に到着した23日の夜、清河八郎は浪士たちを新徳寺に集めて、朝廷への建白書の
署名を求めた。清河は浪士組を将軍と共にすぐに江戸へ戻し、江戸で攘夷を実行しよう
と画策したのだ。これに対して近藤と芹沢鴨らは将軍の江戸帰還に反対し、あくまで
京の地で攘夷すべきだと主張。さらに意見書を書いたり老中の宿に乗り込んで談判した
結果、将軍の帰還は延期になった。
そして近藤ら京都残留派は3月12日に会津藩御預かりとなり、翌13日にその他の
浪士たちが江戸へ帰還した。
■京都残留派24名は、近藤・土方ら試衛館グループが8名、芹沢鴨の水戸浪士グループ
が5名、その他は殿内義雄・家里次郎などのグループで、最終的に残った試衛館グループ
が新選組になり、一方江戸へ戻った浪士たちは、清河ら幹部の暗殺や捕縛の後、庄内藩
御預かりの新徴組となった。
■新選組については、近年歴史学者による新たな見直しが進んでいるが、まだまだ従来の
思想なき左幕の暴力集団といった見方が横行している。
そうした誤ったイメージを粉砕すべく、これからも少しずつ、思想集団としての新選組の
魅力を探っていってみたい。
2012年01月26日 (木) | 編集 |
■雪の日の下田の旅。
今度は海とは逆に、山の方へ行ってみた。


土産物売り場に混じって、ロープウェイの駅がある。
天気が悪いので、さすがに乗客は少なかった。

こんなかんじのロープウェイ。「ねすがた」号。
往復1000円。

ロープウェイの中から見た下田の町。
背後の山並みの起伏がすごい。

左:あっという間に寝姿山山頂駅へ到着。
島田市内から山を見ると、ちょうど女性が仰向けに横たわって
見えることから、「寝姿山」と呼ばれるようになったとか。
右:寝姿山遊歩道マップ。
山頂には展望台がちょろっとあるだけだろうと想像していたので
意外な広さにびっくり。

寝姿展望台。これは絶景だ。
下田湾、そしてはるか先に伊豆七島の島影が見える。

左:展望台からの景色の説明板。
右:黒船展望台の錨のオブジェ。
台北まで1991キロ、富士山まで67.3キロ
ニューヨークまで10988キロと記されている。

左:山腹のあちこちに、お花畑やハーブ園が作られている。
白や黄色の水仙の花がきれいだった。
右:ど根性楠(くすのき)「石割楠」。
どこにでも、ど根性植物があるようで。
一番根性がないのは人間かもしれない。

縁結び・愛染明王堂の絵馬。
ハート型をしている。

愛染明王堂
伊豆急行建設に関係した小泉、五島両氏が信仰していた愛染明王像を
安置するため、伊豆急行によって昭和49年に建立されたお堂。
愛染明王像は鎌倉時代の運慶によって作られ、元は鎌倉八幡宮境内の
愛染堂のご本尊だった。
お堂の周囲にある「寝姿地蔵」。
これら150余体のお地蔵様は平安時代の作といわれ
京洛や高野の古蹟から集められたものだそうだ。
復元された幕末の黒船見張り所。
「下田は古くから江戸(東京)―大阪間の海路の要所にあたり、
海の関所ともいうべき舟番所(下田湾大浦)が置かれ国内船の検問を
行ったところですが、たまたま嘉永2年4月12日(1849年)
英国測量船マリナ号の入港を機に幕府は急いでこの寝姿山山頂に
見張所を設け下田奉行所より数名の役人を派遣し、日夜黒船の警戒に
当たらせたのであります。
この見張所は当時の面影を忍ぶため復元したもので、又この側の台上に
ある大砲はその頃米国船に搭載してあったものです。」
思いのほか山頂が広くて見所もいっぱいだったため、下りのロープウェイに
乗り遅れないよう、最後は走って駅に向かった。ふうふう



幕末の下田の旅。最後は、ここ玉泉寺。
山門下の左側には「安政年間 日本最初 米国領事館」の石碑が。

そして右側には「露艦ヂアナ号水兵墓所」の石碑。
ここはロシア、米国そして日本の外交交渉の原点の場でもあるのだ。
嘉永7年(1854)、ここ玉泉寺は了仙寺と共に米人休息所および埋葬所
に指定された。その2年後の安政3年(1856)、タウンゼント・ハリスが
下田に来航。日本最初の米国総領事館が玉泉寺に開設され、庭に星条旗が翻った。
ハリスはオランダ人通訳ヒュースケンと召使いの中国人と共にここに住んだ。
またペリー来航の半年後にロシアの海軍中将プチャーチンが長崎に来航、
同年12月にディアナ号で下田に来航した。ペリーら米国人は日本を
半未開な野蛮国と見なし、力ずくで開国を迫る「砲艦外交」を展開したのに対し、
ロシアは終始、平和的かつ紳士的な態度で交渉に当たった。
ところが日露和親条約の第1回交渉後、安政の大地震が起こり、下田は大津波に
襲われて、下田港に停泊中のディアナ号も大破した。
ディアナ号の乗組員やプチャーチンは津波に流される日本人たちを救い、日本人は
沈没したディアナ号の代わりに伊豆半島の戸田(へだ)で、日本初の洋船ヘダ号を
建造した。しかしながら日本史ではこうしたロシア版黒船と日本の関係は隅に
追いやられ、黒船や開国といえばペリーとイコールのように記憶されてしまっている。
右:玉泉寺の右奥にはディアナ号乗員の墓がある。

玉泉寺本堂
曹洞宗瑞龍山玉泉寺は420年の歴史を持つ古刹だ。
左:絵葉書の玉泉寺。
右:手塚治虫『陽だまりの樹』より。
ハリスと通訳のヒュースケン、玉泉寺が描かれている。
大河ドラマ『新選組!』でもヒュースケンと攘夷運動の浪士たち
とのエピソードが丁寧に描かれていた。
しかし一般的には「唐人お吉」とのからみの中でハリスが語られる
ことが多く、ハリスやヒュースケンの功績はあまり知られていない。

「米国総領事旗掲揚之地」

記念碑ならびに月桂樹植樹者に、渋沢榮一の名がある。
左:ここにも1979年のカーター大統領訪問記念碑が建っている。
中:右側にあるのが牛王如来。
右:如来の隣の木は「屠牛木」。
「日本最初の屠殺場の跡
当時、領事館員の食料のため仏手柑樹の幹に牛を繋ぎ屠殺せるもの、
昭和6年4月8日東京牛肉商の手により牛王如来を建立し供養す。
樹は枯れたためハリス記念館に保存す。
後世村人は屠牛木と云う。」

「牛乳の碑」
安政5年、江戸から戻ったハリスは重病になり、回復時に牛乳を欲しがった。
奉行所は手を尽くして、近隣の村々から牛乳を集めた。
当時の日本は牛乳を飲む習慣がなかったので、農耕用の牛から搾ったもの。
調達するには多額の費用がかかった。

ハリス記念館
時間が遅かったので、残念ながらもう閉まっていた。
ここで最後のスタンプを押すことができず、駅前の観光協会で押した。
この奥にロシア・ディアナ号船員のお墓がある。
「ハリスも飲んだ伊豆の牛乳」の看板が(^^;
左:ロシア人のお墓は、戸田で死亡したディアナ号仕官ポショーチン
安政の大津波でディアナ号の大砲の下敷きになった水兵ソボレフ
戸田で死亡した水兵バケーエフの3人のもの。
右:絵葉書のディアナ号、プチャーチン、日露交渉を行った勘定奉行の
川路聖謨(かわじとしあきら)。現在に至るまで、意外なことに幕末の
徳川幕府の役人たちの外交手腕が最も有能であったという。
左:本堂の横にあった「ストーブの煙突を出した石」。
ハリスが使ったストーブの煙突の穴。
中:その下に掲げられたハリス日記の一部。
1856年(安政3年)10月4日の日記。
午前8時に地震があって家が震動したこと、ストーブを据え付けたが
不良品で部屋の中が煙だらけになったこと、おいしいイノシシの肉を
食べたことなどが記されている。
右:煙突穴わきのウェルカム・カーターの看板。

本堂の左側に「ペルリ艦隊乗組将兵の墓」の石碑が。

「鎮魂 米国海軍を代表し、ここに眠るペリー提督指揮艦隊
乗員の霊に捧ぐ 1987年5月16日
米国海軍横須賀基地司令官 海軍大佐 S・H・ハウエル」


英文が刻まれたお墓。
■以上、計画を立てずにでかけたので、日露和親条約を締結した
長楽寺をはじめ、回るべき史跡をいくつも見逃してしまった

機会があったら、次回はちゃんと調べてから来なくちゃね。
また4月からBS時代劇で『陽だまりの樹』の実写版が放送されるそうで
ハリスやヒュースケンがどう描かれるのかも興味深い。
2012年01月25日 (水) | 編集 |
■伊豆半島・下田の旅。
下田開国博物館を出て、すぐ近くの了仙寺へ行った。


山門

法順山 了仙寺(日蓮宗)
寛永12年(1635)創建
第二代下田奉行今村伝四郎正長が開基大檀那として創建。
初代奉行父彦兵衛重長の跡を継いだ伝四郎は、江戸への
上り下りの廻船の検問を行った御番所の整備、検問の補助に
あたった廻船問屋の創設、下田の街を波浪から守った武ヶ浜
波除の築造等下田繁栄の基礎を築いた名奉行として知られる。
嘉永7年(安政元年・1854)3月、神奈川県において日米和親条約が
締結されて下田が開港場となると、ペリー艦隊は次々と入港してきた。
ここ了仙寺は、上陸したペリー一行の応接所となり、同年5月に
日本側全権林大学頭等とペリーとの間に日米和親条約付録下田条約が
当寺において調印された。これにより、了仙寺は玉泉寺と共に
米人休息所となった。

本堂

「安政元年(1854) ペリー提督黒船陸戦隊調練の図」
黒船従軍画家ハイネ筆
調練終了後、ペリーと林大学頭全権との間で
日米下田条約が締結された。
図中の本堂は現存、庫裏鐘楼は安政の大津波によって消失した。
過去の津波はここまで押し寄せたのだ。

左:本堂手前の大きなシャコ貝。
昼食を食べた「昇龍」の店内にもシャコ貝が飾ってあった。
右:了仙寺宝物館。ここの前で3つ目のスタンプを押した。
宝物館には、日本最大の3000点以上の黒船・開国資料が
あるが、団体客が入館したばかりなのでパス(^^;

了仙寺の裏山にある「了仙寺横穴遺跡」。
「この洞窟は、今から約1300〜1400年程前、
古墳時代に墓として利用されていたと考えられており、
洞窟内より人骨とともに勾玉や水晶製の切子玉等の玉類、
金銅製の腕輪や耳飾等の装身具、土師器、須惠器が出土しました。」

次に、下田湾沿いの下田公園へ行った。
右は案内図。
左:坂道を登っていく途中にあったのが「カーター記念碑」。
「ここ下田で日米両国民の友情が初めて根をおろし花開いた。」
云々と記されている。 1979年 ジミー・カーター元米大統領。
右:開国記念広場。
「日米修好の基礎は下田に於いて築かれた
1960年 5月18日」

開国記念広場の開国記念碑。
「嘉永7年(安政元年 1854)日米和親条約の締結により、日本最初の
開港場となったここ下田に、ペリー艦隊が入港し、同3年には米国総領事
ハリスが着任し、日米友好の礎が築かれた。昭和28年(1953)に
開港百年を記念して、開国記念碑が建てられた。この記念碑にはペリーと
ハリスのレリーフ像と二人の言葉が刻まれている。
『余は平和の使節として此の地に来れり』(ペリー)
『私の使命はあらゆる点で友好的なものであった』(ハリス)
ペリーの言葉を選んだのは戦後アメリカの連合軍最高司令官だった
マッカーサー元帥、ハリスの言葉はウィリアム・J・シーボルト。
『開国記念の碑』の揮毫は、戦後の日米時代を切り開いた吉田茂総理。
碑の設計と、ペリー、ハリスのレリーフの製作者は、日展審査員をつとめた
西伊豆町仁科の彫刻家、堤達男氏である。」
…と、たぶんに政治的な匂いが立ち込める広場なのであった。

眼下に広がる下田の町並みと港。
空気があまりに冷たいので、坂道を登ると息苦しい。
左:バクチノキ(博打の木)だって(^o^)
「奥に見える赤い幹が特徴的な樹木は、唐突に樹皮が剥がれることから、
突然に金を失うことにからめて「バクチノキ=博打の木」といわれる。
江戸時代には博徒の信仰樹となり、この樹の下で終日博打を打っていた
とも伝えられる。暖かい地方の樹の関東では珍しく、伊豆と房総半島にある。
八丈島では樹皮から黄色の染料をとる。
国内には、この木を含め3本ほど確認されている。」
右:おっ、この木か。
しかし終日博打を打ったらいかんよ、ね。
左:鵜島城址。下田城のことだ。この上が天守台跡になっている。
右:「下田城(鵜島城)は天正16年(1588)、後北条氏(小田原北条氏のこと)が
南伊豆防衛の拠点として築城した山城で、水軍基地でもあった。
下田湾に突き出たほぼ円形(直径800m)の半島上にあり、
最高点は海抜70mである。複雑な地形を利用した空堀などがあり
北、西、南の三方は海に面した断崖になっている頑固な守りであった。
天正18年(1590)3月、秀吉の小田原攻めにより、城主清水康英は
わずか600の城兵で、押し寄せた豊臣の水軍1万4000と戦い、
50日籠城したが、4月下旬ついに降伏した。」
ったく秀吉には、毎回毎回腹が立つわ



上に登ってみた。
ここらへんに天守台があったのだろうか。
下に転げ落ちそうだ

下る途中にあった「幸福稲荷」。
幸福稲荷は、元は金花(きんか)稲荷と呼ばれていて、
天保14年(1843)に下田奉行・土岐丹波守に再建
されてから幸福稲荷と呼ばれるようになったという。
土岐丹波守はハリスと交渉した日本側代表の一人。
なお土岐丹波守は、安政の東海地震と津波による
犠牲者の霊を弔う市内稲田寺(とうでんじ)の「つなみ塚」の
建立者の一人でもある。

下岡蓮杖(1823〜1914)
少年時代に狩野派の絵を学び、江戸の薩摩藩屋敷で見た
銀板写真の精巧さに驚いて、写真師を志すようになった。
安政3年(1853)、ハリスの通訳・ヒュースケンから
写真の手ほどきを受け、その後横浜で写真術を習得。
幕末の江戸城を写したり、優れた写真を多く残した。

下田に上陸したペリー艦隊一行は、了仙寺までの700メートルを
行進した。現在はこの通りを「ペリーロード」と呼んでいる。
平滑川に沿って桜並木が続き、古民家や蔵を利用した
おしゃれな店がならんでいる。

川のほとりに、無造作に大砲!
1829年製 30ポンドカロネード。

橋の上にこんな絵が描かれたタイルがはめ込まれている。

ペリー上陸の碑
左:「嘉永7年(安政元年 1854)再来したペリーと幕府の間でもたれた
日米和親条約の交渉過程で、開港地として下田港が提示されると、ペリーは
調査船を派遣した。下田港が外洋と接近していて安全に容易に近づけること、
船の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満たしている点に
ペリーは満足した。条約締結により即時開港になった下田に、ペリー艦隊が
次々と入港した。そして、ペリー艦隊の乗組員が上陸したのが、下田公園下の
鼻黒の地であった。ここを上陸記念の地として、『ペリー上陸の碑』が建てられた。
この記念碑のペリー像は、故村田徳次郎氏の作品であり、記念碑の前の錨は、
アメリカ海軍から寄贈されたものである。」
右:裏側。「日本最初の開港地」
ペリー来航ばかりが有名だが、ペリー艦隊が去った半年後に、ロシアの
プチャーチン提督もディアナ号でここへ来航した。
プチャーチンについては、以下の2010年1月20日のブログをどうぞ。
「日露友好の原点 西伊豆・沼津市戸田を訪ねて その2」
http://tekcat.blog21.fc2.com/blog-date-20100120.html

その拡大。「ペリー艦隊停泊図」

「日米開港150周年によせて
ジョージ・ブッシュ大統領から下田市へのメッセージ
2004年3月31日」
灯が燃えている。
米国による日本征服の第一歩の地というわけだ。

ペリー艦隊来航記念碑
ペリーの像と錨。

マンホールも黒船。
2012年01月24日 (火) | 編集 |

急に休みを取ることになって、とりあえず
伊豆半島の南端にある下田へ向かうことにした。
というのも東京周辺も雪で、箱根方面はもちろん通行止め、
こうなったら南しか行くところがないと思ったからだ。
湯河原の町中は、屋根がうっすら白くなっているだけで
道路にも雪は降り積もっていなかった。
都内よりもいくらか温暖なのだ。
写真は、下田まであと54キロの地点。
伊豆半島は見かけよりも大きいのだ。
朝急に行き先を決めたので、またアバウトな旅になりそうな予感。
事前にみっちり計画を立てて、
ポイントを外さないまわり方が好きなんだけどな。
右:稲取付近に雪が積もっていた。
少し標高が高い土地にさしかかると雪が残っている。
驚いたのは、白浜海岸近くの道路が雪に覆われていて
反対側の道路を除雪車が走っていたこと。
路肩でタイヤにチェーンをつけている車もいた。
まさかの雪に、スリップしないかヒヤヒヤだった。
白浜を抜けると雪はすっかりなくなっていた。

左:下田港。寒い彡(-_-;)彡
右:下田は黒船開国の町。
あちこちに黒船ゆかりの観光スポットがある。
ということで、幕末の下田めぐりへゴー。

お、さっそく対岸を走る黒船発見!
けっこうスピードがある。
左:「黒船乗船受付処」 表現が昔っぽいね(^^;
右:乗船チケット

絵葉書。下田は吉田松陰ゆかりの観光スポットも多いのだ。

ペリー艦隊の旗艦サスケハナ号を模した遊覧船。
下田港を約20分でクルージングする。

外輪にSUSQUEHANNAと書いてある。
1853年、ペリー艦隊は旗艦のサスケハナ号と
サラトガ号、プリマス号で浦賀沖に来航、
翌年は旗艦をポーハタン号に替えて横浜沖にやってきた。
下田に来航した黒船はポーハタン、ミシシッピー、
マセドニアンなど7隻である。

乗船口に「告ぐ 手形改」と書いてある。
左:黒船内部。
中:後部デッキ。寒いけどここに陣取ることにした。
右:カモメのエサ。1袋100円。カッパえびせんだ(^▽^)
左:サスケハナ号の説明。
ペリー艦隊のサスケハナ号は1850年にフィラデルフィアで建造された。
長さ78メートル、2450トン、乗組員300名、大砲6門。
「サスケハナはフリゲート艦と称せられ、蒸気船が帆走装置を
備えた機帆船で、機関が両舷の外輪(バドル)を回転して船を推進した。
これらの船は防腐、水洩れ防止のため黒色の塗料を塗装していた
ことから黒船の名がついた。
「黒船」サスケハナ(SUSQUEHANNA)の船名は、
(アメリカ合衆国東部の川)ニューヨーク州のキャッツキル山地に源を発する
長さ714キロの大河サスケハナ川から命名する。」
右:黒船来航時の下田の様子を描いたもの。

赤い鳥居の毘沙子島(みさごじま)。
対岸には弁天島がある。
吉田松陰は金子重輔と一緒に弁天祠に隠れ
小舟で下田に停泊していたポーハタン号に乗り込もうとして失敗。
弁天祠の裏側に造成された弁天島にはふたりの銅像が建っている。
同じ頃に来航したロシア船へは、近隣の若者が密航に成功したのにね。

船から見た下田港。

カモメのエサを投げてみた。
ところがトビの群れが素早く現れてエサを横取り。
カモメたちは近寄れない。
エサがなくなるとトビはあっという間に姿を消して
カモメだけが未練がましくついてきた。
左:赤い灯台。
中:犬走島と白い灯台。
右:元の港へ到着。
降りたとたん、冷たい雹(ひょう)がパラパラふってきた。


記念スタンプを4つ集めて応募するというスタンプラリーをやっていたので
スタンプを押せる場所に近いお店で昼食をとることにした。
下田港に近い「網元 きんめせん 昇龍」。
カウンターの中が船の生簀(いけす)になっている。
お刺身定食。さすがに漁港だけあって美味しい。
カウンターの向かいでは中国人観光客が食べていた。

「昇龍」の裏手の「よろず交流館らくら」の裏手。
「土藤(つちとう)商店」。明治20年操業の酒屋だ。
「らくら」でスタンプを押した。
地場産品やレトロな品物がいっぱい。
左:年代物の冷蔵庫。
右:「らくら」で買った「開国下田紅茶」。
ペリー、プチャーチン、ハリスと3種類あって
これは「ハリス・ティー」というハーブティー。
「安政3年(1856年)日本最初の米国総領事T・ハリスが
江戸幕府に手土産として献上したのが、
わが国はじめての『紅茶』であった。」

なんとも年代物の干物・鮮魚店「石亀水産」。
鉄トタンの外観を保っている。
ここでもスタンプを押した。

天井の「つるし雛」。
昔は、お天気の悪い日には天井裏で魚を干したそうだ。

次に向かったのが「下田開国博物館」。
なまこ壁の建物だ。
なまこ壁とは防火、防湿のため土壁に瓦をはめこみ
継ぎ目に漆喰を盛り上げて固めた土蔵造りで
漆喰がなまこに似ていることから、こう呼ばれている。
館内にはペリー艦隊、ロシア使節プチャーチン、吉田松陰などの
ゆかりの品々や資料が数多く展示されている。
特にプチャーチンやディアナ号のロシア人乗組員たちの品々、
グラスやプチャーチンの布製のカバン、船室に飾られていた馬の絵が
展示されていたのには感銘を受けた。
内部は撮影禁止。
左:博物館脇の水桶。
中:吉田松陰が拘禁されていた場所は、
博物館前の駐車場の一角だそうだ。
右:おみやげ。
ペリーやハリスの接待用に出されたのが「保命酒」というお酒。
みりんのような味だそうだが、それを飴にしたもの。
右は「のど飴 十六味保命酒」。まるっきりニッキ飴だわ。
左は「保命玉」。保命酒入りで、甘酒の味がする。
2012年01月17日 (火) | 編集 |

1月12日、沼津港深海水族館へ行く途中の
交通量の多い国道1号線沿い(静岡県駿東郡清水町)で
「柿田川湧水群」という看板を見かけたので
何だろうと思い、水族館の帰りに寄ってみた。

駐車場の領収書の右側が絵葉書になっている。

けっこう中は広いようだ。
予備知識がないまま、とにかく公園に入ってみることにした。
左:林の中の坂道をどんどん下っていくと…。
右:散策路の木橋(八つ橋)に沿って湿地帯が見えてきた。
箱根の湿生花園にちょっと似てる。
左:柿田川の本流だ。
右:管から水が噴き出ている。
動画を少し撮ったのでリンクしておく。
富士山に降った雨や雪が、約8500年前に富士山の爆発で
大量に噴出した三島溶岩流層の間をゆっくりと通り、
豊かな地下水となって湧水している。
せせらぎの音と小鳥のさえずりが心地よい。
流域には四季折々に貴重な動植物群が見られる。
写真を撮って観察している人がいた。

散策路から木の幹が出ている(^^;
緑に囲まれた、美しい「湧き間」。
周囲の景色が澄んだ水面に映っている。

湧水広場。
ちょうど1年前に三島に行ったら、街中にもこんなかんじの
湧水広場があって、驚くと同時に深い感銘を受けた。
当時の写真は(時間がなくて面倒なので^^;)アップしそこなったままだが
近いうちにブログに書いてみたいと思う。
源流はここと同じく富士山の水である。
触ってみると、水温はさほど冷たくはなかった。
湧水広場。
夏場はここで水遊びができる。
左:公園内にある貴船神社。
泉川の清冽な湧水にちなみ、京都の貴船神社から御霊分けされた。
祭神は高冗}神(たかおかみの神)という水神。
またこの地は、戦国時代に北条氏が造った泉頭城西の丸にあたる。
おっ、出た! 小田原北条氏!
右:水五訓
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり
一、障害に遭ひて激しくその勢力を倍加するは水なり
一、常に己の進路を求めてやまざるは水なり
一、自ら潔くして他の汚濁を洗ひ而して清濁併せ容るるは水なり
一、洋々として大海を充たし発して雲となり雨と変じ凍りては
玲瓏たる氷雲と化してその性を失はざるは水なり

貴船神社の手前は、広々とした芝生広場になっている。
国道のすぐ脇にこんな自然豊かな場所があるなんて
外から見たらぜんぜんわからなかった。

で、この柿田川公園は戦国時代にはお城の場所だったのだ。
「泉頭城(いづみかしらじょう)」
柿田川の水源地・泉頭に築かれた戦国時代の城。
戦国末期には小田原北条氏の持城となり、
伊豆を守る国境の城としての役目を果たした。
城域」は東西400メートル、南北500メートル。
それぞれの曲輪(くるわ)は泉ノ川と自然の深い洞、
人工の空堀で防御され、土橋と木橋で結ばれていた。
天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐が始まると、
小田原北条氏は泉頭城を破壊し、韮山城と山中城へ撤退した。
その後、この城跡が気に入った徳川家康は隠居御殿の造営を
命じたが、家康が没したため計画は中止になった。
左:なるほど、よく見れば石垣の跡が。
右:広場の池も風情たっぷり。

湧水第1展望台にて。
左隅の「湧き間」から水が湧き出ている。

枝に乗ったシラサギと水面に映る影が
水墨画のようだ。
湧水第1展望台からは、
大地から次々に湧き出す湧水が見える。

柿田川湧水群
源は約40キロ北方の富士山に降った雨や雪である。
これらが三島溶岩流の間を通り長い年月(数ヶ月〜数十年)を経て、
ミネラルを適度に含み、日本有数のすばらしい地下水となり、
ここに湧水している。
全長約1200メートル、狩野川と合流し、駿河湾に注ぐ。
水温は年間15度前後。
全川すべて湧水。湧水量1日約100万トン。
湧水口は数十箇所、主として上中流部に集中。
静岡県東部(沼津市、三島市、熱海市、函南町、
清水町)約35万人の飲料水。
2012年01月16日 (月) | 編集 |
■近藤勇の生家跡をたずねて東京の調布へ行った翌日の12日、今度は逆方向の
静岡県沼津市へ、新しくできた深海水族館を見に行った。
黒猫ラッキーの口内炎がまた悪化したので、午前中に動物病院で抗生剤の注射をして
もらい、その後に家を出た。

この先を左折すると沼津港に出る。

魚屋さんがずらりと並んで活気づいている。
最近はキンメダイの干物が人気だ。

沼津の猫発見!

沼津港の新名所「港八十三番地」。
地魚が食べられるお店が軒を連ねている。

この奥にあるのが「沼津港深海水族館」だ。
1階が深海にすむ珍しい魚たちの展示。
深海魚なので水槽周りが暗く
フラッシュもたけないので、撮影が難しい。
左:ミミックオクトパス(擬態するタコ)。
ウミヘビやミノカサゴなど15種以上の魚に擬態して身を守る。
中:ボロカサゴ。ヘビのように脱皮する魚。
右:サナダミズヒキガニ。
熨斗袋の水引のような細くて長い足を持つ。

近くの海底を再現した水槽。
自転車やタイヤなどの投棄ゴミの間を
魚たちが行きかっている。

タツノオトシゴの水槽。
うちでもたくさんタツノオトシゴを飼っているが
この黄色くて大きいのは「オオウミウマ」という種類。

11日に調布に行った帰りに墨田区の江戸東京博物館に寄ったが
その中に、今年の干支の辰にちなんだ展示コーナーがあった。
左:江戸時代の、のどや咳の薬「龍角散」の看板。
龍角散の名前は、龍骨(化石動物の骨)、龍脳(龍脳樹からとれる結晶)、
鹿角霜など配合された生薬名に由来する。
左側は龍角散と同じ、咳やたんに効く「登龍丸」の看板。
中:登龍丸の包み紙。江戸下谷の青雲堂英(はなぶさ)文蔵が発売元。
右:生薬として使われたタツノオトシゴ。
大きさから、上のオオウミウマと思われる。

タツノオトシゴの水槽にいた「カニハゼ」。
体の横に目の模様があって、カニのように横に歩いたり
上にジャンプしたりするひょうきんもの。

2階はシーラカンス・ミュージアムになっている。
入り口の「シーラ爺や」が口を動かしてご挨拶する。

中はさらに薄暗くて撮影困難(・・;)
「シーラカンスの海」。暗闇の深海に生息している。
シーラカンスが棲むアフリカのコモロ諸島の生物。
真っ暗闇の中、懐中電灯の光を当てると…。
左:マダガスカルオオゴキブリ
右:アフリカオオヤスデ

展示のレイアウトがなかなかオシャレだ。
シーラカンスを捕獲調査したベースキャンプの様子を再現。

世界で唯一の冷凍シーラカンスの展示。
中はマイナス18度。
次々といろんな色のライトに照らされ、めまぐるしいかんじ。
左:シーラカンスの体をCTスキャンにかけた詳しい研究結果の
映像と説明が流れている。
右:シーラカンスは、なんと卵胎生
(お腹の中で孵化した子どもを産むこと)なのだ。

シーラカンスの体のしくみ。
シーラカンスの臓器標本。
左から卵、浮袋、眼。
浮袋の中には空気ではなく、海水よりも軽い脂肪分(ワックス)が
つまっていて、このワックスで浮力調整をしている。
左からエラ、脳(ちっちゃい!)、胃。

左:シーラカンスの脊柱(手前右)とマグロの背骨の比較。
シーラカンスとは「からっぽの骨」という意味で
脊柱(軟骨性の管)の内部は油に似た流動性の液体で満たされている。
右:シーラカンスの鱗(ウロコ)。分厚くてゴワゴワしている。
シーラカンスの発見者と手紙。
1938年にコモロ諸島で発見された。
ハリモグラの部屋。
オーストラリアやニューギニアに棲むハリモグラは
魚なのに子どもを産むシーラカンスと反対に
哺乳類なのに卵を産む珍しい動物だ。カモノハシも同じ単孔類。
卵は母親のお腹の育児嚢の中で護られ、約10日で孵化する。
右:チョコチョコ歩いてきたハリモグラを写す。これはおしり。

深海魚を観た後は、やはり深海魚を食すことに(^_^;)

浜焼き贅沢定食1480円。
時計回りにサザエ、ホタテ、以下メギス、デン、
メヒカリ、深海エビと深海魚のオンパレードだ。

自分で焼いて食べる。網に乗っているのはメギス。
くせがなく、あっさりした白身魚だ。

港ののんびり猫発見!
近くのうなぎ屋さんでキャットフードをもらっていた。

沼津港の風景。
2012年01月14日 (土) | 編集 |
■近藤勇の生家跡をたずねる東京都調布市の旅の最後は、深大寺。

深大寺入り口。
深大寺へ来るのは20代のとき以来だ(^^;
参道へ続く道の周辺にはたくさんのお蕎麦屋さんが並んでいる。

深大寺山門(薬医門)。
山門前の左右の景色。

本堂。
本尊は阿弥陀如来。
ここでも若い男性が長々と拝んでいた。
左:常香楼。
お線香を炉の中に投げ込んで祈願する。
右:ムクロジの木。
木の実は、羽根突きの先端の黒い玉に使うそうだ。

元三大師堂。
中に慈恵大師像が安置されている。
新年祈願の読経が聞こえてきた。

元三大師堂の欄干左側に立てられた看板。
「近藤勇と新選組ゆかりの地(深大寺)
深大寺元三大師堂内天然理心流一門の奉納額
元三大師堂内に掲げられた奉納額で
日露戦争に出征した天然理心流五代近藤勇五郎の門人たちのために
明治40年3月3日に奉納されたものである。
近藤勇五郎は、近藤勇の実兄音次郎の次男で勇の娘瓊子(たまこ)と
結婚し近藤家と天然理心流を継いだ。 調布市観光協会」
深大寺といえばお蕎麦。
ということで、山門前の老舗「元祖嶋田屋」に入った。
創業は文久年間(1861〜1863)。
文久3年(1863)は、京に上った浪士組の京都残留グループが
新選組としてスタートした歴史的な年だ。
右:店の前のユーモラスな石像。
左:ざる蕎麦 800円。
蕎麦はこしがあって美味。
つゆは甘口で、蕎麦湯を入れると豊かな香りが立った。
右:店の網戸越しに弁才天池が見える。
その中央の亀島に生えている松の木になにやら止まっている。
最初はフクロウかと思ったが、少し拡大してみると…。
お店の人の話によると、アオサギがここでよく羽を休めているらしい。

元祖嶋田屋の先に「鬼太郎茶屋」がある。
というか、ここが目的で深大寺に来たのだが(^^;

鬼太郎とねずみ男の像。
右側奥が深大寺山門だ。
左・中:妖怪喫茶コーナーのメニュー。
目玉おやじの栗ぜんざいとか砂かけ寒天など。
右:妖怪ショップ「ゲゲゲの森」。
妖怪グッズがいっぱいでテンションあがりまくりじゃ(^o^)

鬼太郎茶屋の車。

おなじみの妖怪たちが勢ぞろい。

「古代の石臼」。
鬼太郎のマンガの中に出てくるタイムマシンなのだ。
左:妖怪ギャラリー。入館料100円。
今回のテーマは、水木作品によく出てくる「メガネ出っ歯の男」。
右:かわいい小さな足跡が2階まで続いている。

水木作品の原稿と妖怪フィギュアがいっぱい。
私は特に水木ファンということではないが
『ガロ』の「墓場鬼太郎」の頃から、主だった水木作品は読んできた。
高校時代に、親友から化粧箱入りの高価な妖怪辞典を誕生日プレゼントに
もらったくらいだから、周囲からは変わった趣味の人物という認識を
もたれていたのだろう。カラオケの定番ソングは「ゲゲゲの鬼太郎」だったし(^^;
ちなみに一番好きな作品は「河童の三平」。
左:妖怪「百目」と名脇役・メガネ出っ歯の男。
右:鬼太郎の父母をはじめとした妖怪フィギュア。
当時は妖怪辞典を読み込んで、
ほとんどの妖怪の名前が言えたもんだったが。
左:「カムイ伝」をもじった「カモイ伝」。
水木しげるは、とってもシニカルなのだ。
右:しげるちゃんのプロフィール。
37歳のときから、ずっと調布の住人に。
左:展示コーナーにある「癒しのデッキ」。
ここからも弁才天池のアオサギが見えた。
階段付近の小さな扉を開けると、妖怪たちが姿を現す。
左:「一本だたら」
中:お風呂場に現れた「髪切り」。
右:「さがり」。
エノキの木の枝から馬の首だけ下がっていることがある。
これも妖怪だ。
目玉のおやじまん。
生地に黒豆きな粉と豆腐を練りこんである。
3個入りパック360円。
目玉模様がかわいい。
じゃころっけ。1個150円。
ほんとに「じゃこ」がたくさん入っている。
熱々でサクサクと軽く、これはおいしい。

なぜか昔から持っている、水木しげるの長編『劇画 近藤勇』。
雑誌連載時は、サブタイトルの『星をつかみそこねる男』という
題名だったような記憶が…?
近藤のキャラは、子母澤寛や司馬遼太郎をベースに水木独特の解釈を
加味した、農民上がりで出世欲旺盛の、人はよいがどこか時代遅れといった
設定になっている。しかしながら背景の時代解釈はなかなか見事で
読みごたえがあるし、斬首された勇の胴体を探して掘り起こすシーンは
リアルで、いかにも水木作品らしい。
あとがきで水木はこう記している。
「たしか昭和三十四年ごろだったか、偶然京王線の調布に住むことになり、
やたらに付近の散歩をしてみた。」「その近くに竜源寺という寺があった。
そこで私は、偶然近藤勇の墓に面会したわけだ。
なんだ、あの有名な近藤勇ちゃんは、こんなところで生まれたのかと、
急に彼に親しみをおぼえたわけだ。」「こういう中で、近藤勇は育ったのかなあ
と思っているうちに、『ひょっとすると、近藤勇というのは、剣豪というよりも、
いささかコッケイな豪傑であったのではないだろうか』と思うようになった。」
「とにかく、調布の芋畠を歩いていた子供が道場主の養子となり、貧乏生活の
あげく食えなくなって京都に行き、偶然新選組の御大になり、歴史に名を残した
ものの、結局本人にとってはあまり幸福ではなかった、
すなわち『星をつかみそこねた男』にすぎなかったわけだ。
勇はむしろ、調布の芋畠で芋を作りながら、天寿を全うしたほうがよかったのかも
しれない。その近藤勇の一生を、私なりの見方で描いたのがこの作品である。」
■かように近藤勇という人物は、現在に至ってもなお脇役扱いで、歴史的に正当な
評価を与えられていない。私自身もなかなか近藤に対して興味を持てずにいたが
新選組と幕末維新期の歴史をより詳しく知るにしたがって、近藤も興味の範囲内に
入ってきた。いずれまた彼について書いてみたい。
■さて深大寺から近藤勇生家跡・調布空港を見学したあとで、両国の江戸東京博物館まで
足を延ばした。これが意外と距離的に近いのだ。
両国は以前住んでいた場所でもあって懐かしかったが、長くなるので、今回は割愛する。
帰りは急に寒くなって、小田原を過ぎたあたりから雪が降ってきて驚いた。
2012年01月13日 (金) | 編集 |

近藤勇の生家(宮川家)跡から歩いて5分のところに
宮川家の菩提寺・曹洞宗大沢山龍源寺がある。

山門を入ってすぐ左手に建つ近藤勇の胸像。
刀身も供えられている。

いかめしく、きりりとした表情のイサミちゃん。
胸像の横と後ろ側(^^;
左:「近藤勇百年祭胸像建之協賛御芳名」の碑
右:「近藤勇と天然理心流」の碑
この地に生まれた近藤勇は、鹿島神道流を修行した
近藤内蔵助長裕が創始した『天然理心流』の四代目を継いだ剣豪です。
その真髄は「誠の剣」であり「刀の剣」であるとも言われています。
古武道は日本人の心のふるさとであり貴重な歴史的文化遺産であります。
『天然理心流』の木刀5本の形と柄枠三組の演武のフィルムが
日本武道館の古武道協会に永久保存されています。
三鷹市剣道連盟では、近藤勇先生慰霊剣道大会を毎年開催しています。
昭和六十三年三月吉日
三鷹市剣道連盟 会長 石川金次
去年、NHKのBS時代劇で塚原卜伝(主演は大河『新選組!』で山南敬助を
演じた堺雅人)を放送していたが、この卜伝の鹿島神道流を継いだのが
天然理心流ということで、なかなか感慨深いものがある。

若い男性が、長々と祈りを捧げていた。

本堂の裏手すぐに近藤家の墓がある。
「東京都指定文化財 近藤勇の墓
種別 旧跡
指定年月日 昭和11年(1936)3月4日
所在地 三鷹市大沢6−3−11
天保5年(1834)武州多摩郡上石原村の宮川久次郎の三男として生まれ、
15歳で天然理心流近藤周助に入門、近藤家の養子となって
28歳で天然理心流四代目を襲名した。
文久3年(1863)土方歳三らと京都に上り、慶応3年(1867)
大政奉還までの4年間、新選組として活躍した。
京都、鳥羽伏見の戦いで敗れた後、甲陽鎮撫隊を組織し山梨県勝沼で
官軍を迎え撃つが、大敗して千葉県流山で投降する。
慶応4年(明治元年)4月25日、板橋宿で処刑された。享年35歳。
法名は貫天院殿純義誠忠大居士。
平成5年(1993)10月31日 三鷹市教育委員会」

墓所の左手にある辞世の句。
投降し捕縛された翌日の4月4日に詠んだ漢詩。
孤軍援絶えて俘囚となる
顧て君恩を念えば涙更に流る
一片の丹衷能く節に殉ず
雎陽千古是れ我がともがら
他に靡き今日復何をか言わんや
義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所
快く受けん電光三尺の剣
只まさに一死を将て君恩に報いん

向かって左側から、
この写真には写っていないが近藤久太郎・彦助の墓
近藤新吉の墓、近藤勇五郎の墓、近藤勇の墓(献花されている墓)
一番右は先祖代々の墓。
勇五郎の墓の横側には妻・タマ(勇の娘)の名が刻まれている。
近藤勇は明治元年(1868年)4月25日、板橋宿の刑場で処刑された。
斬首された首は板橋で3日間晒された後、焼酎漬けにして京へ運ばれ
三条河原でも3日間晒された。
京での晒し首を見た人々の間では、
「宮さん宮さん」のこんな替え歌が流行ったという。
「三条河原の下て群集するのハなんじやいな
トコトンヤレトンヤレナ
あれハ朝敵近藤勇の首しらナイカ
トコトンヤレトンヤレナ」
近藤の首の行方は謎になっているが、愛知県岡崎市の法蔵寺に
旧知の人によって葬られたという説もある。
処刑された近藤の胴体の埋葬場所についても諸説あって
その1つが、処刑を目撃した養子の近藤勇五郎と叔父の宮川弥七らが
3日後に刑場内の遺体を掘り起こして、ここ龍源寺へ改葬したという説。
他には、処刑された板橋の寿徳寺境外墓地に埋葬されたという説や
荒川区の上野彰義隊の墓地である円通寺埋葬説、会津埋葬説などがある。
左:近藤家の隣りに宮川家の分家の墓所がある。
この写真では切れてしまったが、一番左側は勇の従兄弟・宮川信吉の墓。
慶応元年に新選組に入隊し、天満屋事件で負傷して死亡した。
中:墓所の奥。
右:近藤家の墓所と本堂の間には竹やぶがある。
宮川豊治氏が母・富さんから聞いた話では、勇五郎が刑場で掘り返して
運んだ勇の遺体は、当時は刑死した者はちゃんと埋葬できないので
龍源寺の墓地の外側の、竹やぶの場所に横にして埋めたそうだ。

勇の生家が取り壊される原因になった調布空港を見に行った。
生家や龍源寺からも、道路をはさんですぐ鼻の先に位置している。
これは管制塔。
左:小田急バスの停留場とタクシー乗り場。
三鷹駅や調布駅まで運行している。
右:東京都調布飛行場ターミナル。
庶民的なつくりだわあ(^^;
大島や新島・神津島の伊豆諸島へ
1日10往復の定期便を運行している。

柵越しに飛行場の中が見える。
戦時中、生家跡の隣りの現・野川公園には、軍事施設である中島飛行機
三鷹研究所があり、調布空港(当時は東京調布飛行場という名称だった)と
中島飛行機の間に位置する宮川家は、取り壊されざるを得ない運命のもとに
置かれたのだった。
調布市郷土博物館の資料より
<昭和20年頃の東京調布飛行場>
昭和14年(1939)当時の東京府が三鷹村・調布町・多磨村にまたがる
広大な土地を強制的に買上げ建設に着手した。昭和16年(1941)に
竣工し、以降、陸軍により拡張整備が繰り返され、関連施設は60万坪を
越える規模となった。航空部隊は本土爆撃をおこなう米軍機B29に体当たり
攻撃を展開した。「震天」特別攻撃隊や艦載機との戦闘など東京防空の要となった。
戦争末期には、特別攻撃の訓練を終えた「振武」特別攻撃隊が、沖縄周辺の
海上特攻のため飛び立った。昭和20年(1945)8月15日の敗戦により
連合国占領軍に接収され、アジア極東地域米軍基地で消費される野菜類を
栽培する『調布水耕農場』が建設された。
プロペラ機が見える。
発着の時には、ブーンというかなり大きな音が聞こえた。
以前『調布空港』という映画を観て、この空港自体に興味を持った。
人生の岐路に立って迷う3人の男女を描いたハートウォーミングな映画で
以下はその作品のシーン。
バス停とかそのままで、ちょっとなごむ(*^^)

上空から俯瞰した眺め。
滑走路の向こう側が生家跡や野川公園で、左端が味の素スタジアムだ。













