2007年10月07日 (日) | 編集 |

■仕事柄なかなか映画館に行くことがかなわない。
新作で観たい作品も多いのだが、ここはちょっと我慢して、以前観た映画でなんとなく記憶に残っている作品をいくつか取り上げてみたい。
■まず手始めに『蝿の王』(1991年イギリス)。
銀座のシネセゾンでの単館上映だったと思う。
原作はウィリアム・ゴールディングの小説『蝿の王』。
小説を読んだ方がずっと前で―タイトルに惹かれて購入ーその後作者のゴールディングがノーベル賞をもらったので、そんなに有名な小説だったのかと逆に驚いた。それが映画になったとわかり、さっそく観に行った次第だ。
■原作と映画とでは話の筋やイメージに多少の違いがあるのは当たり前といえば当たり前だが、この映画では冒頭のシーンからつまづいたまま、最後までその違和感から抜け出ることができなかった。
というのも主人公というべき2人の少年の外見が原作とは逆になっていて、それまで抱いていたイメージと映画でのキャスティングがどうしてもうまく重ならなかったからである。
原作では登場する少年たちのうち、主役級のラーフの形容が「金髪の少年」「邪気というのが微塵もないその口もとや眼にはある種の柔和さが漂っていた」などというのに対し、ラーフと敵対することになるジャックとその仲間は「黒い帽子」「黒い外套」といった姿で現れる。
ジャックの外見については「背が高く、痩せて、骨ばっていた」「黒い帽子の下に見える髪の毛は、赤い色」「顔はくしゃくしゃしていてそばかすだらけで、愚かさというもののない醜悪な容貌を呈していた」と描かれている。
一方映画でのラーフ(映画ではラルフ)はもじゃもじゃした黒髪で、ジャックは端正な顔の金髪。まるで反対だ。外見の違いもストーリーの流れの中で重要なメタファーになっているのだから、いくらなんでもこれはまずいだろう。
映画関係者の誰も違和感を感じなかったのだろうか。
(右下の映画パンフを参照:古くなったので写りが悪いが(^^;; 手前の黒髪がラーフ(ラルフ)で金髪がジャック)

■内容についてだが、小説では第三次世界大戦(核戦争)が勃発して、イギリスの少年たちが飛行機で疎開先に向かう途中、南太平洋の孤島に不時着するという設定になっている。
無事に不時着したのは少年たちだけで、孤島は楽園のように美しく豊かで、彼らは幼いなりに秩序だった生活を築いていこうとする。
しかしそんな彼らに不気味な闇が次第に迫ってくる。闇とは恐怖や不可視の獣のことであり、少年たちは仕留めた野豚の頭を棒に刺して、目に見えない闇の獣への貢ぎ物にするのだった。
豚の頭は腐って蝿が黒々とたかり、「蝿の王」となって少年たちを支配する。やがて少年たちは血みどろの権力闘争を繰り広げていくのだった。
映画ではこの設定が多少違っており、近未来の戦争ではなく、現代のアメリカの陸軍幼年学校の生徒たちを乗せた飛行機が海に墜落する。救命ボートが開いて24人の少年たちは同じく孤島に漂着するわけだが、小説と違って大人である機長も意識不明のまま島に運ばれる。
この重症の機長が洞窟へ逃げ込み、彼の影やうめき声を少年たちが闇の獣すなわち怪物と錯覚することで悲劇が起こるのだ。
■「蝿の王」とは悪魔ベルゼブルのことである。
以下のように、新約聖書にもベルゼブルが出てくる。
イエスが家にもどると、群集が再び集まって来て、イエスも弟子達も食事をすることすらできないほどいそがしくなる。ところがこういうことを聞いて、イエスの家族は彼を取り押さえに来る。彼は気が狂った、などという噂がたっていたからである。
――またエルサレムから下って来た律法学者達も、イエスはベルゼブルにつかれている、と言っていた。
ベルゼブルとは悪霊共の頭であるが、それだからイエスはこのベルゼブルによって悪霊を追い出すことができるのだ、というのである。そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬(たとえ)でもって次のように話した、
「サタンがサタンを追い出すことなどどうしてできようか。もしもある王国が自らに逆らって分裂するなら、その家は立ちえない。同様にもしもサタンが自らに逆らって分裂するなら、その家は立ちえない。同様にもしもサタンが自らに逆らって反逆し分裂するなら、やっていくことができず、滅んでしまうのだ。あるいはまた、強い者の家に押し入ってその家財をうばう場合を考えてみよ。まずその強い者をしばり上げた上でないと、誰もそういうことはできない。しばった上ではじめてその者の家をうばうことができるのである。――はっきりと諸君に対して宣言しておこう。人間はどんな罪を犯しても一切赦されるのだ。たとえそれが冒瀆の言葉であろうとも。しかしながら、精霊に対して冒瀆する者は永遠に赦されることがなく、永遠の罪に定められる」。イエスがこう言ったのは、彼らが、イエスは汚れた霊につかれている、などと話していたからである。――
<マルコによる福音書 田川健三・訳>
また同じマルコの中の「ゲラサ人の癒し」にもこういう記述がある。
この部分を読めば、ベルゼブルと豚の関係もわかるだろう。
そしてガリラヤ湖の南東岸、ゲラサ人に属する地方についた。(略)
そこでイエスは彼にたずねた。
「お前の名は何という」。彼は答えて、「俺の名はレギオンだ(ローマの軍団のこと)。俺達は(ローマ軍団のように)大勢だからな」とみえを切ったのだが、またあわてて、イエスに、自分達をこの地方から外に追い出さないようにしてほしい、としきりに頼んだ。ここにちょうど山の中腹のところに豚の大群が放し飼いになっていた。これを見て汚れた霊共はイエスに頼んで言った。
「俺達を豚の方に行かせてくれ。そうすれば豚の中にはいるから」。イエスが認めると、霊共は出て行って豚の中にはいった。豚はおよそ二千匹もいたのだが、これがみな汚れた霊のおかげで狂いだし、湖の崖から下に殺到して落ち、水の中でおぼれ死んだ。(略)
■左はゴールディング『蠅の王』集英社文庫・初版本
さて孤島での少年たちによる絶望的な殺戮劇は、意外な形で終焉する。
小説では、ジャックたちが島に火を放ちラーフを追い詰めていくシーンだ。ラーフは悲鳴を上げながら炎の中を走り、後ろからは敵対する蛮人と化した少年たちの矢や棒切れが飛んでくる。
地面に倒れ絶体絶命に陥ったラーフの目に、彼を見下ろしている海軍士官の姿が映った。士官の背後には水兵たちもいた。そして…
「なかなかおもしろそうに遊んでるじゃないか」と、士官はいった。
ふいに現れた大人たちの救いの手の前で、ラーフも敵となった少年たちも激しく嗚咽する。
少年たちの嗚咽にとり囲まれた士官は、心を動かされかなりどぎまぎした。彼らが気をとりなおす時間の余裕を与えようと、顔をそむけた。そしてじっと待っていた。その間、沖合はるかに停泊している端正な巡洋艦の姿に、じっと眼をそそいでいた。
映画のラストシーンはこうだ。
炎の中で「ラルフ狩り」が始まる。ジャングルを走りぬけ砂浜へと転がり出るラルフ。彼の目にすっくと立つ軍靴をはいた2本の足が見えた。
そこに槍を手にした半裸の少年たちも走ってきて、軍人に驚き立ち尽くす。
「お前たち、何をしている?!」と海軍将校が言った。
海岸には次々にヘリコプターが着陸し、海兵隊員がぞくぞくと上陸して整列していった。
■映画では、無人島での過酷な体験の後で、しかし少年たちは救い出されてまたもとの日常の世界へ戻っていくのだといった安堵感でラストを迎える。
しかし小説では、孤島での絶望的な戦いが終わっても、外の世界もまた救いのない核戦争のさなかであるという、恐ろしい二重構造になっているのだ。
映画の少年たちはヘリで無事に陸軍幼年学校へ帰還できるだろうが、小説の少年たちが乗るであろう巡洋艦は無事に帰還できるかどうか、いやもはや帰る場所などなくなっているかもしれないのだ。
2007年05月13日 (日) | 編集 |

■三島本人と彼の文学には特別な思い入れはない私だが
日本未公開ということで、いずれは観て見たい映画の1つが
『Mishima- A Life in Four Chapters』である。
日米合作。米国等では1985年に公開。
日本で上映されない理由は、赤裸々な家庭生活の描写があるため瑤子夫人の許可が下りなかったというのが定説だ。
■映画はタイトル通り、三島の小説『金閣寺』『鏡子の家』『奔馬』と、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地での決起演説と割腹自殺(1970年11月25日)を描いたドキュメンタリー風映像の4部構成になっている。
■製作陣やキャストも以下のように豪華だ。
製作総指揮…フランシス・コッポラ、ジョージ・ルーカス
監督・脚本…ポール・シュレイダー 音楽…フィリップ・グラス
美術…石岡瑛子 ナレーション…ロイ・シャイダー
キャスト
緒形拳 沢田研二 坂東八十助 永島敏行 佐藤浩市
萬田久子 烏丸せつ子 大谷直子 李麗仙
三上博史 横尾忠則 池部良 倉田保昭
■緒形拳が三島を演じているが、企画では坂本龍一の名もあがっていたという。
私的には坂本龍一の方がよかったと思うけどね(^^;;
ちなみに『戦場のメリークリスマス』では坂本がヨノイ大尉を演じたが、最初のキャスティングは沢田研二だったのだ。
坂本のヨノイが大好きで『戦メリ』は何十回となく繰り返し観たけれど、今になってみればジュリーのヨノイも激しく観たかったと思う私なのだ。
■You Tubeにほんのさわりの映像がUPされていたので貼っておく。
イントロダクション
クロージング
2007年01月25日 (木) | 編集 |

■義母の介護で昨日1日だけ休みが取れたので、夕食の片づけを終えた後、急ぎ小田原のシネコンのレイトショーへ行った。
映画館で観るのは、実に「王の帰還」以来である。
とにかく今回は何があっても絶対に観ると固く決めていたので(^^;;、レイトショーがあるとわかって小躍りした。
帰宅したのは夜中の1時過ぎ。強行軍で疲れたが、それだけの価値が十分ある秀作である。
■「それボク」は周防正行監督の11年ぶりの新作で、痴漢冤罪事件を通して日本の刑事裁判をリアルに描いた作品である。
この映画の元になった事件はかねてから知っていたし、例の植草氏事件の信憑性にも私は多くの疑問を抱いてきた。過去の冤罪事件についても、中学生時代から何冊も読んでいる。
そうした一連の興味と、山本耕史が主人公の友人役で出演するというミーハー心が加わって映画館に足を運んだわけだが、2時間半弱という長い上映時間を少しも感じさせないほど、全編が緊迫感に満ちた実に見ごたえのある映画だった。
■冒頭、「十人の真犯人を逃すとも、一人の無辜(むこ)を罰することなかれ」という有名な法格言が映し出される。
現代法では、疑わしきは罰せずという「推定無罪」が原則である。
ところが日本の現状はこれとは逆に、怪しい人間は捕まえて隔離すべきという「推定有罪」の方向にますます傾きつつあるのではないか、とこの映画は問題提起する。
就職の面接に向かうフリーターの青年・金子徹平は、満員電車の中で女子中学生から痴漢に間違えられる。
駅事務室で何ら申し開きができないまま警察に引き渡され、無実だと容疑を否認したため拘留。そして起訴されて刑事裁判が始まる。
■各シーンとも驚くほどリアルに描かれており、観客はあたかも自ら留置場や法廷にいるかのような息詰まる臨場感に直面する。
出演者全員の自然で抑揚の効いた演技で、映画と現実の境目もすでにあやふやで、最後まで画面から目が離せない。
■そして観終わってから強く納得したこと。
それは周防監督も述べているように、この作品がこれまでの法廷ものと一線を画しているのが、「日本の刑事裁判の主役は裁判官だった」という視点から作られている点だ。
特に小日向文世が演じる室山裁判官には衝撃を受けた。
■徹平青年は本当に無罪なのか、それとも有罪か…。
映画は私たち観客に問いかける。
そして深く考えるほどに、さまざまな疑問が胸に渦巻いてくる。
私がもし徹平だったら…。
あるいは、もし女子中学生の親だったら…と。
■映画を観て恐怖を感じざるを得なかったのは、痴漢というごく身近な事件もさることながら、すでに反戦ビラ配りや政治集会を理由に不当逮捕が相次いでいるという現実である。
もし共謀罪が成立してしまったら、もはやこの恐怖は映画の中だけのものではない、私たち一人ひとりにとってすぐ明日の出来事になりかねないのだ。
特に私が気になったのが、徹平が116日間という長期間拘留されていた警察の留置場(代用監獄)のシーンである。
この日本の代用監獄とは世界の先進国の中でも特異な制度で、警察は最大23日間も被疑者を拘留して取り調べることができる。
徹平のように否認して起訴されると、さらに長期拘留されてしまう。
実際に反戦ビラの人の場合も約3ヶ月拘留されたと記憶している。
そしてこの代用監獄こそが、しばしば冤罪の温床となっているのだ。
映画「これボク」の元になった事件と映画を紹介した朝日新聞夕刊記事 07年01月24日
ニッポン人・脈・記 弁護士の魂「うその自白、絶対だめ」
http://www.asahi.com/jinmyakuki/TKY200701240269.html
2006年12月25日 (月) | 編集 |
『それでもボクはやってない』監督:周防正行
出演:加瀬亮・山本耕史・もたいまさこ・役所広司
■『Shall we ダンス』以来の久々の周防監督作品で、痴漢冤罪事件を扱ったもの。
ちょうど植草一秀氏の事件とも重なり、ぜひ一人でも多くの人に観てもらいたい映画である。
『月刊TV navi』新春特大号に周防監督と山本耕史の対談が載っていて、その中で監督は「たとえ映画がヒットしなくても、関わった人たちにだけでも、日本の刑事裁判って変! と気がついてもらえたらうれしい」と語っている。
またこのテーマがライフワークになりそうで、もしかしたら続編を作るかもしれないそうだ。
今回の撮影では山本の演技をかなり高く評価しており、その点でも今後のコンビネーションに期待したい。
『ユメ十夜』 原作:夏目漱石『夢十夜』
■「こんな夢を見た」で始まる漱石の作品を、ベテランから若手まで10人の監督が独自の解釈で描いたもの。
第一夜
監督:実相寺昭雄 出演:小泉今日子・松尾スズキ
第二夜
監督:市川崑 出演:うじきつよし 中村梅之助
第三夜
監督:清水崇 出演:堀部圭亮・香椎由宇
第四夜
監督:清水厚 出演:山本耕史・菅野莉央
以下略(^^;;
■先日亡くなった実相寺昭雄監督(第一夜担当)は、ウルトラQやウルトラマンシリーズを手がけたことで有名。
栗塚旭主演のテレビ時代活劇『風』でも4話を監督している。
さすがにその手法は際立って斬新で、時代劇なのにSFチックだったり実験的アートシアター系だったりと、実に面白い。
脚本が佐々木守ということもあって、ストーリー、映像、音楽共に、『風』はもっと特筆されるべき作品だと思う。

『どろろ』
原作:手塚治虫
出演:百鬼丸―妻夫木聡 どろろ―柴咲コウ
■室町時代末期、天下取りの野望を持つ醍醐景光は、野望の実現と引き換えに生まれて来るわが子の体を48匹の魔物に与える約束をする。
生まれた赤ん坊はその約束どおり体の48ヵ所を欠損しており、化け物として川に流され捨てられた。
赤ん坊は医者の寿海に拾われ、百鬼丸と名づけられる。そしてちょうど後の作品『ブラック・ジャック』でBJがピノコを人間に再生させたように、寿海によって手足をはじめ、目や鼻の人工のパーツを与えられる。
成長した百鬼丸は旅に出て、妖怪や死霊たちと戦う。1匹の魔物を倒すたびに失った体の部分も1つ戻ってくるのだ。
旅の途中で百鬼丸はコソ泥の少年どろろと出会い、ふたりはさらなる妖怪退治の旅を続けるのだ。

■『どろろ』は手塚が水木しげるを意識して描いた作品で、アニメ化(モノクロ)もされたが、身障者差別に当たるという的外れな批判を受けて、長らく再放送もできない扱いを受けていた。
数年前にようやくBSで放送解禁になり、改めて内容の素晴らしさを堪能したものだ。
映画の方の主役ふたりは予想外のキャストだ。
妻夫木がクールな百鬼丸をどう演じるのか。
手塚作品の女性ファンにはBJに次いで人気キャラの百鬼丸だけに、ちょっと心配でもある。

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